中華三脚クロニクル THE COMPLETE SERIES — Vol.02

かつて「安かろう悪かろう」の代名詞だった中国製三脚は、いまやプロフェッショナルの撮影現場を支える存在になった。Benro、Sirui、Leofoto——これらの名前を聞いて、もはや「中華三脚」という言葉に安物のイメージを重ねる人は少ないだろう。
しかし、ここに至るまでの道のりは長い。
20世紀初頭、中国にカメラが持ち込まれた時代から、国有工場が計画経済のもとで光学機器を製造した時代、改革開放による外資導入とOEM受注の幕開け、そして2000年代以降の民間ブランドの勃興と世界市場への進出——中国の三脚産業は、中国近現代史そのものと深く結びついている。
本連載では、時代区分を軸に、中国カメラ用三脚産業の通史を5回にわたって辿る。
1949年10月1日、毛沢東は天安門の楼上から中華人民共和国の成立を宣言した。
この日から、中国のあらゆる産業は「自力更生」——すなわち外国に頼らず自国で必要なものを作る——という国家方針のもとに再編されていく。写真機材もまた例外ではなかった。
前回述べた通り、建国時点で中国にはカメラ用三脚を製造する工場が存在しなかった。カメラ本体すら国産品はほぼ皆無で、上海の機材商が保有する戦前の輸入品在庫に頼っている状態だった。
しかし新中国は、ソ連の全面的な技術支援を受けながら、驚くべき速度で工業化を推進する。カメラ、レンズ、フィルム、そして三脚——これらの写真機材は、「文化事業と宣伝工作のための戦略物資」として国家計画に組み込まれたのだ。
ソ連モデルの導入と光学機器産業の誕生(1950年代)
「第一次五ヵ年計画」と光学工場の建設
1953年に始まった第一次五ヵ年計画(1953-1957年)は、ソ連の「156項目援助プロジェクト」を核として中国の重工業化を一気に進めるものだった。
直接的に三脚製造を目的としたプロジェクトは存在しなかったが、光学機器・精密機械の国産化は国防と宣伝の両面から重視された。以下の工場が、のちに三脚を含む写真機材の製造拠点となっていく。
| 工場名 | 所在地 | 設立年 | 主な製品 |
|---|---|---|---|
| 上海照相機廠 | 上海市 | 1958年 | カメラ本体(上海牌)、のちに撮影台・三脚 |
| 天津照相機廠 | 天津市 | 1956年前後 | カメラ本体(幸福牌)、測量用三脚 |
| 北京照相機廠 | 北京市 | 1956年前後 | カメラ本体(長城牌)、スタジオ用品 |
| 南京照相機廠 | 江蘇省南京市 | 1958年 | カメラ本体(紫金山牌)、付属品 |
| 広州照相機廠(珠江) | 広東省広州市 | 1958年 | カメラ本体(珠江牌)、アクセサリー |
| 杭州照相機廠(海鳥) | 浙江省杭州市 | 1960年代 | カメラ本体(海鳥牌)、付属品 |
| 江西光学仪器総廠(のちの鳳凰光学) | 江西省上饒 德興 | 1965年 | 光学機器、のちにカメラ本体(鳳凰牌)、レンズ |
| 上海海鷗照相機廠 | 上海市 | 1958年頃 | カメラ本体(海鷗牌)、アクセサリー全般 |
「大躍進」と写真機材——理想と現実の乖離
1958年から始まった「大躍進運動」は、すべての産業分野で生産目標の急激な引き上げを行った。写真機材もその例外ではなく、各地に照相機廠(カメラ工場)が急造された。
しかし実態は、多くの場合「既存の小規模な金属加工工場や修理工房を看板だけ架け替えた」ものだった。三脚に関しては、カメラ本体の生産すら軌道に乗っていない段階で、付属品としての三脚に独立した生産ラインが割り当てられることはまれであった。
この時期に製造された「三脚」と呼べるものは、主に以下の2種類である。
- スタジオ用大型撮影台:写真館向けのポートレート撮影に使用される、重量のある据え置き型の撮影台(三脚というよりスタンド)。木製の脚部にカメラ台を取り付けた簡素な構造のもの。
- 測量用三脚の転用品:国有の測量機器工場が製造する経緯儀・水準器用の木製三脚を、カメラ用に転用したもの。これは専用の写真用三脚とは言い難いが、実質的に同じ目的で使用されていた。
いずれにしても、日本のSLIKやドイツのGitzoが同時期に製造していたような「カメラ専用設計のフィールド三脚」とは大きく異なるものだった。
1960年代——独自設計の模索と中ソ対立の影響
ソ連技術者の撤退(1960年)
1960年、中ソ対立の激化に伴い、中国に派遣されていたソ連の技術者が一斉に引き揚げた。これは中国の工業化にとって大きな打撃であったが、同時に「ソ連の技術に頼らず、自国で設計・製造する」という方向への転換を否応なく加速させた。
光学・精密機器分野でも、ソ連の光学機器を模倣するだけでなく、独自の設計を試みる動きが始まった。ただし、三脚は優先度の低い品目であり、独自設計の対象はあくまでカメラ本体とレンズに集中していた。
上海照相器材廠の役割
上海には「上海照相器材廠」という、カメラ本体ではなく写真器材・暗室用品・アクセサリーを専門とする国有工場が存在した(上海照相機廠とは別組織)。
この工場が、1960年代に入ってスタジオ用三脚・引伸台・ライトスタンドなどの「撮影周辺機材」を系統的に製造した記録がある。「上海市地方志」の記述によれば、照相器材廠は写真館向けの大型三脚(木製脚部+金属雲台)を生産し、全国の国営写真館に供給していた。
これが、確認できる限りにおいて**中国で最初の「組織的な三脚製造」**と呼べるものだろう。ただしフィールド用のコンパクトな三脚ではなく、重量10キロ以上のスタジオ据え置き型であり、海外メーカーの三脚とは性格が大きく異なる。
文化大革命期(1966-1976)——混乱と停滞
工場の混乱
1966年に始まった文化大革命は、中国のすべての産業に壊滅的な影響を与えた。光学機器産業も例外ではなく、工場の技術者が「ブルジョワ専門家」として批判され、生産ラインが停止する事態が各地で発生した。
上海海鷗照相機廠のような比較的大規模な工場でも、カメラの生産数は大幅に減少し、三脚のような「付属品」に生産資源を割く余裕はさらに縮小した。
宣伝工作と写真——三脚需要の特殊な側面
一方で、文化大革命期には「宣伝写真」の需要が極めて高かった。毛沢東の肖像写真、革命模範の記録写真、工農兵(労働者・農民・兵士)の活動記録——これらの撮影に使用される機材は「革命のための道具」として生産が認められた。
しかし皮肉なことに、宣伝写真の撮影に使われた三脚の多くは、戦前に輸入された舶来品や、ソ連製の測量用三脚の転用品であった。国産三脚の品質は不十分であり、重要な撮影には信頼性の高い外国製品が優先されたのだ。
「三線建設」と内陸部への工場移転
文化大革命と前後して、毛沢東は国防上の理由から「三線建設」を推進した。これは沿海部の工場を内陸部(四川省・貴州省・雲南省など)に移転・分散させる政策であり、光学機器工場もその対象となった。
江西省の江西光学仪器総廠(のちの鳳凰光学)は、小三線建設の一環として1965年8月に設立された工場である。上海電影機械廠・上海照相機二廠・江南光学仪器廠・南京測絵仪器廠・南京模具廠の一部が内遷して組成された。民生用カメラ(鳳凰牌)の正式生産は1969年に始まった。
1970年代後半——改革開放前夜の状況
国産カメラの生産ピークと三脚の位置づけ
1970年代に入ると、文化大革命の混乱が収束に向かうにつれ、各地の照相機廠の生産が回復していった。特に海鷗(上海)と鳳凰(江西)のカメラ生産は、1970年代後半にピークに向かう。
海鷗4A型(二眼レフ)や海鷗DF型(一眼レフ)は、中国の写真愛好家にとって「手が届く国産カメラ」として広く普及した。しかし、これらのカメラに合わせた専用の三脚ラインが開発・量産されたかというと、答えは否定的である。
三脚は依然として「カメラ本体の付属品」という位置づけに留まり、独立した製品カテゴリとして開発が行われることはなかった。写真愛好家は、国営百貨店で販売される簡素な国産三脚(多くは木製脚部に金属製ティルト雲台を組み合わせたもの)を使うか、外国製品を入手するかの選択を迫られた。
1978年——転換点
1978年12月、鄧小平の主導のもと中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議が開催され、「改革開放」政策が正式に採択された。
この政策転換は、中国のすべての産業にとって歴史的な転機となった。三脚産業にとっても同様である。国有工場の体制は徐々に解体・再編され、外資の導入と民間企業の勃興が始まる。
次回【第3回】では、改革開放から1999年までの約20年間——外資導入、OEM受注の幕開け、そして広東省中山市に三脚産業が集積していく過程を追う。
この時代の三脚を振り返って——30年間で何が変わったか
1949年から1978年までの30年間を振り返ると、中国の三脚産業は「ゼロからの出発」であったことが改めて確認できる。
| 項目 | 1949年時点 | 1978年時点 |
|---|---|---|
| 三脚専業メーカー | なし | なし(国有工場の一部門として製造) |
| 主な製品 | — | スタジオ用大型撮影台、簡易三脚 |
| 材質 | — | 木製脚部+金属雲台が主流。アルミ合金の使用は限定的 |
| 技術的特徴 | — | ソ連式測量機器の設計を踏襲。独自の三脚設計はほぼなし |
| 主な供給先 | — | 国営写真館、報道機関、政府宣伝部門 |
| 輸出 | なし | なし |
| 品質水準 | — | 日本・欧州製品に大きく劣る |
「三脚の国産化」は、カメラ本体やレンズの国産化と比べて常に優先順位が低かった。これは、三脚がカメラ本体ほど「技術的威信」の象徴にならなかったことに加え、計画経済のもとでは需要と供給のマッチングが機能せず、「消費者が求める製品を作る」というインセンティブが欠如していたためだと考えられる。
この状況が根本から変わるのは、改革開放以降のことである。
中華三脚クロニクル THE COMPLETE SERIES
- 写真伝来——カメラと三脚が中国に渡った時代(〜1949)
- 国有工場の時代——計画経済下の光学機器産業(1949-1978)
- 改革開放とOEM——広東省に三脚工場が集まるまで(1978-1999)
- 民間ブランドの勃興——Benro・Sirui・Fotoproの台頭(2000-2009)
- 世界シェア獲得と高級化——「中華三脚」の再定義(2010-現在)
参考・典拠一覧
- 上海市地方志弁公室 編 — 『上海軽工業志』「照相器材篇」。上海の写真機材産業の通史を収録した地方志資料。上海照相機廠および上海照相器材廠の沿革・生産品目に関する記述を参照。 https://www.shanghai.gov.cn/difangzhi/
- 中国照相機械工業協会 — 各種年鑑資料。中国国内のカメラ・光学機器生産統計。
- Douglas Kerr — 「The Chinese Camera Industry」(History of Photography, Volume 30, Issue 1, 2006年)。中国カメラ産業の概要を英語で解説した学術論文。 https://www.tandfonline.com/toc/thph20/30/1
- 上海海鷗照相機公司 公式資料 — 海鷗ブランドの沿革史。海鷗4A型・DF型の生産経緯を含む。 https://en.wikipedia.org/wiki/Shanghai_Seagull
- 江西鳳凰光学股份有限公司 公式資料 — 鳳凰光学の企業沿革。1965年の設立経緯と三線建設との関連を含む。 https://en.wikipedia.org/wiki/Phenix_(camera)
- 沈澍農 — 『中国照相機工業発展史』。中国カメラ産業の発展を包括的に記述した中国語文献。
- 中国国家統計局 — 各年版『中国統計年鑑』。工業生産に関する統計データ。 https://www.stats.gov.cn/
- 冠龍照相器材股份有限公司 公式サイト — 企業沿革。1931年創業(南京路445号に「冠龍照相材料行」として開設)。
- 日本写真機工業会(JCII)— 『カメラ年鑑』各年版。日本の三脚メーカー(SLIK、Velbon等)の生産・輸出統計。同時期の国際比較として参照。 https://www.jcii-cameramuseum.jp/
- 毛里和子 — 『現代中国政治——グローバル・パワーの肖像』(名古屋大学出版会)。改革開放に至る政治的背景の概説として。


