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08|フィルムカメラ時代の富士——レンジファインダーから中判、写ルンですまで

FUJIFILM
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富士フイルムは「フィルムの会社」として知られるが、同時に半世紀以上カメラを作り続けてきた「カメラの会社」でもある。1948年のフジカシックスに始まり、プロが愛した中判レンジファインダー、ハッセルブラッドと組んだパノラマ機、そして「写ルンです」という発明まで——フィルム時代の富士は、地味だが確かな名機を世に送り出してきた。本章は、デジタル以前の富士のカメラづくりをたどる。

第Ⅱ部では、レンズメーカー・富士フイルムの世界を見た。第Ⅲ部からは視点をカメラ本体へ移す。富士はレンズ屋であると同時に、フィルムカメラの時代から確かなカメラメーカーでもあった。だが不思議なことに、その存在感はどこか控えめだ。キヤノンやニコン、ペンタックスのように「カメラの富士」という像は、世間にあまり浸透していない。

なぜか。本章でフィルム時代の歩みをたどると、その理由と、富士というメーカーの個性が見えてくる。

フジカの誕生——「フィルムの会社」がカメラを作る理由

富士写真フイルムがカメラ事業に進出したのは戦後のことだ。戦前から戦中にかけて光学ガラスや双眼鏡を手がけていた同社は、戦後にいったん光学ガラス部門を縮小しつつ、レンズの商品化とカメラ部門への進出を企図する。希元素を原料とする新種光学ガラスの開発に挑んで成功し、明るいレンズ「フジノン」を生み出した(第5章参照)。

そして1948年(昭和23年)、6cm×6cm判のスプリングカメラ「フジカシックス」を発売し、念願のカメラ市場に進出する。ブローニー判ロールフィルムを使う蛇腹式の中判カメラで、富士初の一般用カメラだった。

ここに、富士のカメラづくりの原点がある。富士にとってカメラは、自社のフィルムを使ってもらうための「受け皿」でもあった。フィルムを売る会社が、そのフィルムで写真を撮る道具を自ら用意する——この垂直統合の発想は、のちのInstaxやXシリーズにも通じる、富士の一貫した姿勢である。

フジカ・ブランドの展開——レンジファインダーから一眼レフへ

フジカシックスの成功を足がかりに、富士は矢継ぎ早にカメラを世に出していく。

  • スーパーフジカシックス(1955年)——6×6判専用となり、一眼式の連動距離計、テッサー型(3群4枚)のフジナー75mm F3.5、セミオートマット式の自動巻き止め(フィルムの送り過ぎを防ぐ機構)、二重露出防止を備えた。スプリングカメラの完成度を高めた一台だ。
  • フジカフレックスオートマット——高級二眼レフ。
  • フジペット——入門者向けの簡素なカメラ。「だれでも写せる」を体現した普及機で、初心者を写真の世界へ導いた。
  • フジカ35——35mmカメラ。

こうしてカメラメーカーとしての地位を固めた富士は、引伸機・双眼鏡・スライド映写機なども展開し、光学機器分野での事業基盤を確立していった。

そして一眼レフ時代の象徴が、フジカST701(1970年発売)だ。M42スクリューマウントを採用した、富士初の35mm一眼レフである。フルマニュアル機ながら、TTL露出計にシリコン受光素子を用いた点が特徴だった。当時主流だったCdSに比べて応答性に優れ、富士が一眼レフ市場へ本格的に参入する際の技術的な名刺代わりになった。標準レンズには「FUJINON 55mm F1.8」などが組み合わされ、レンズ屋・富士の実力をボディとともに示した。

ただし、ここで一点補足しておきたい。富士が誇る多層膜コーティング「EBC(Electron Beam Coating)」の導入はST701そのものではなく、1972年のFUJINON 55mm F3.5 Macroなどのレンズ、および同年発表のST801世代と結びつけて見るのが正確である(第5章参照)。ST701は「EBC初採用機」ではなく、その直後に続くEBC/ST801へ向かう前段階の一眼レフと位置づけるべきだ。

以降、富士はAXシリーズなどの一眼レフを展開するが、やがて一眼レフ市場の主役の座は他社に譲っていく。富士の真骨頂は、むしろ「他社がやらない隙間」で発揮されることになる。

中判の名機——「テキサス・ライカ」と呼ばれた690

フィルム時代の富士を語るうえで外せないのが、中判カメラの系譜だ。なかでも伝説的なのが、GW690シリーズである。

GW690は、6×9判という大きなフォーマットを持つレンジファインダー中判カメラだ。初代からGW690IIIまで改良を重ねながら作り続けられ、その無骨な外観と高い写りから、海外では「テキサス・ライカ(Texas Leica)」の異名で呼ばれた。ライカのレンジファインダーをそのまま巨大化したような姿が、その由来だ。

このカメラの魅力は、何より「軽くて、写る」点にある。ハッセルブラッドやブロニカといった中判一眼レフに比べて軽量で操作も簡単、それでいて6×9判の大きなネガが生む圧倒的な画質を得られる。プロのためのカメラでありながら、機構はシンプル。レンズ固定式で交換はできないが、その割り切りがかえって信頼性と軽さを生んだ。

一方、中判入門機として人気を博したのがGA645シリーズだ。645判(セミ判)はランニングコストが低く、本体もコンパクトで携帯に便利。GA645はAF(オートフォーカス)とAE(自動露出)を搭載し、中判でありながら誰でも扱える手軽さを実現した。1998年のGA645Ziはズームレンズを備え、しかも中判には珍しく「写ルンです」のようなフラッシュを内蔵。シャンパンゴールドの愛らしい外観もあって、いまも初心者に勧められる中判機として支持されている。

プロ向けの690と、入門者向けの645。この二段構えに、富士の中判に対する姿勢がよく表れている。

ハッセルブラッドと組んだパノラマ機——TX-1

富士のフィルムカメラのなかでも、ひときわ異彩を放つのがTX-1(1998年)だ。

これは、スウェーデンの名門ハッセルブラッドとの共同プロジェクトで生まれた、レンズ交換式の35mmパノラマレンジファインダーカメラである。日本では「富士フイルムTX-1」として、欧米では「ハッセルブラッドXPan」として発売された。製造とエンジニアリングは富士が日本で担い、レンズはフジノンが供給した——つまり、中身はほぼ富士製である。

TX-1の真価は、その独自のフォーマットにある。通常の35mmフィルムを上下にマスクしてパノラマ「風」に見せるのではなく、横65mm×縦24mmという、標準的な35mmコマ(36×24mm)二枚分に迫る「本物の」ワイドネガを焼き付ける。しかも、フィルムの途中で通常画面とパノラマ画面を切り替えられる、当時として唯一のデュアルフォーマット機だった。65mm幅のパノラマは中判に迫る情報量を持ち、35mmフィルムでありながら中判的な描写を実現する。

ボディはチタンとアルミ製。日本版TX-1は生のチタン仕上げで、塗装が剥がれやすかったXPanに比べて経年劣化に強かった。フィルム時代の終盤に、ここまで凝った「本物」を作り上げたところに、富士の意地が見える。

終盤の高級コンパクト——KlasseとNatura

デジタルへの移行が進む2000年代、富士はフィルムコンパクトカメラの分野でも記憶に残る機種を残した。

  • KLASSEシリーズ——上質なつくりと写りを両立させた高級コンパクト。
  • NATURA(ナチュラ)——「フィルムならではの自然な写真」をコンセプトに掲げたシリーズ。NATURA CLASSICAは28-56mm F2.8-5.4のズームレンズを備え、広角端ではF2.8を使えるため、曇りの日や暗い室内でもストロボなしで、その場の空気ごと自然に切り取れる。高感度フィルム「NATURA1600」と組み合わせることで、夜や室内でも雰囲気を損なわずに撮れた。「泣きたくなるほど優しく仕上がる」と評され、フィルム回帰の流れのなかでいまも中古価格が高騰している。

これらは、銀塩カメラの終わりに咲いた徒花とも言える。だが、その「自然な色」「空気感」への執着は、のちのデジタルカメラのフィルムシミュレーションへと、確かに受け継がれていく。

そして「写ルンです」——カメラの民主化

フィルム時代の富士を象徴する、もう一つの発明が「写ルンです」(1986年)だ。レンズ付きフィルムというまったく新しい商品カテゴリーを切り開いた、その意義は大きい。

ただし、「写ルンです」が果たしたフィルム文化・市場へのインパクトについては、すでに第2章で詳しく論じた。ここで強調したいのは、これも富士の「カメラづくり」の系譜に連なる、という視点だ。フジペットが「だれでも写せる」普及機だったように、「写ルンです」は「カメラを買わなくても写せる」究極の普及機だった。富士のカメラづくりには、創業以来一貫して「写真を撮る人の裾野を広げる」という思想が流れている。

独自の視点——「控えめな名機メーカー」という個性

ここからは筆者の見立てである。

フィルム時代の富士のカメラを振り返ると、ある共通点が浮かぶ。それは「他社がやらない領域で、確かなものを作る」という姿勢だ。

キヤノンやニコンが一眼レフの覇権を争うなか、富士はその主戦場から早々に身を引いた。代わりに選んだのが、6×9判の中判レンジファインダー、パノラマ、高級コンパクト、そしてレンズ付きフィルムといった「隙間」だった。これらはいずれも、派手な数字競争とは無縁の、用途と写りで勝負する地味な分野だ。だが、そのどれもが熱心なファンを生み、いまも中古市場で評価され続けている。

この「控えめな名機メーカー」という個性は、偶然ではない。富士はあくまでフィルムの会社であり、カメラはその表現を支える道具だった。だからこそ、ボディのスペックを誇示するより、「撮れた写真がどう見えるか」を重んじる。中判の大きなネガ、パノラマの広がり、ナチュラの優しい色——すべては「最終的な画」への奉仕だった。

この思想は、デジタル時代のXマウントにそのまま受け継がれる。スペックより撮影体験、解像力より「色」。フィルム時代に培われた富士のカメラ哲学は、形を変えながら今日まで生き続けているのだ。

次章へ——銀塩衰退期に伸びた「もう一つのフィルム」

本章では、フジカシックスから写ルンですまで、フィルム時代の富士のカメラづくりをたどった。控えめながら、確かな名機を世に問い続けた半世紀である。

だが2000年代以降、銀塩フィルムは急速に市場を縮小していく。多くのメーカーがフィルム事業から撤退するなか、富士は意外な一手で生き残りを図った。インスタントフィルム「Instax(チェキ)」である。デジタル全盛の時代に、なぜ「その場でプリントが出てくるフィルム」が世界的なヒットになったのか。続く第9章で、銀塩衰退期に伸びた「もう一つのフィルム」の物語を見ていこう。

出典・参考

編集注:本章から第Ⅲ部「カメラメーカーへの道——フィルムからデジタル黎明へ」に入る。「写ルンです」がフィルム文化・市場に与えた影響の詳細は第2章を参照。次章・第9章ではInstax(チェキ)を、第10章ではコンデジ・FinePixとデジタル黎明期を扱う。フィルムカメラの「自然な色」への執着がフィルムシミュレーションへ受け継がれる話は第Ⅴ部(第17〜20章)で詳述する。

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