フィルム・クロニクル(2)

1900年、イーストマン・コダックは1台1ドルのカメラを発売した。ブローニーと名付けられたその箱型カメラは、写真の歴史において最大の転換点のひとつである。それまで中産階級以上の趣味だった写真撮影を、文字通り「誰でも」手が届くものに変えた。本章では、コダックが20世紀前半に築いた「フィルム帝国」の全貌を描く。
ブローニーカメラ——1ドルの革命(1900年)
写真を「国民的趣味」にした箱
前章で触れた1888年の「コダック」カメラは画期的だったが、25ドルという価格は依然として高額だった。当時のアメリカの工場労働者の週給が約10ドル前後であったことを考えれば、2〜3週間分の賃金に相当する。写真は依然として中産階級の趣味だった。
ジョージ・イーストマンはこの障壁を意識していた。彼の目標は「写真を鉛筆と同じくらい便利なものにする」ことだった。
1900年2月、コダックはブローニー(Brownie)カメラを発売した。価格はわずか1ドル。117フィルム(6枚撮り)は15セント。現像とプリントを含めても、1回の撮影サイクルは1ドル以下で完結した。
ブローニーの仕様は極限まで簡素化されていた。
- 厚紙と木で作られたボックス型ボディ
- メニスカスレンズ1枚(固定焦点)
- ロータリーシャッター(速度固定)
- ファインダーはボディ上面の小さな反射鏡
- 117ロールフィルム(2¼×2¼インチ、6枚撮り)
画質は決して高くなかった。レンズの周辺部は歪み、ピントは被写体が6フィート(約1.8m)以上離れていないと合わない。しかし、それで十分だった。ブローニーのターゲットは写真愛好家ではなく、「家族の記録を残したい一般市民」だったからである。
子どもとブローニー——マーケティングの革新
ブローニーの名前は、当時アメリカで人気だったパーマー・コックスのイラストキャラクター「ブラウニーズ」(妖精の一種)に由来する。これは意図的なマーケティング判断だった。コダックはブローニーを「子どもでも使えるカメラ」として売り出したのである。
広告には子どもたちがカメラを手に持つイラストが描かれ、キャッチコピーは「Operated by any School Boy or Girl」(どんな学校の男の子も女の子も操作できる)だった。実際、初年度だけで15万台以上が販売されたとされる。
このマーケティング戦略は、写真の社会的意味を根底から変えた。写真は「専門家の技術」や「裕福な大人の趣味」ではなく、「子どもの遊び」になった。写真を撮るという行為から、最後の敷居が取り払われた瞬間である。
フィルムのビジネスモデル——「ジレットモデル」の先駆者
カメラを安く売り、フィルムで儲ける
コダックのビジネスモデルは、後に「ジレットモデル」(剃刀と替刃モデル)として知られる構造の先駆けだった。ジレットが安価な本体に高利益率の替刃を組み合わせたのは1904年のことだが、イーストマンはそれより前にこの原理を実践していた。
ブローニーカメラの1ドルという価格は、製造原価すれすれか、あるいはそれ以下だったと推定されている。利益の源泉はフィルムにあった。カメラは一度買えば数年間使えるが、フィルムは撮影するたびに消費される。現像・プリントのサービスも繰り返しの収益をもたらす。
この構造は、コダックの収益を爆発的に成長させた。1900年の売上高は約2,000万ドルだったが、1920年代には1億ドルを超えた。フィルムの売上が全収益の大半を占め、この構造は21世紀初頭までほぼ変わらなかった——そしてそれが、デジタル時代におけるコダック衰退の伏線ともなる。
垂直統合——原材料からプリントまで
イーストマンが構築したビジネスモデルのもうひとつの特徴は、徹底した垂直統合である。コダックは以下のすべてを自社で行った。
- 原材料の調達:ゼラチン(感光乳剤のバインダー)、硝酸銀、セルロースベースの製造
- フィルムの製造:ロチェスターの巨大工場群
- カメラの設計・製造
- 現像・プリントサービス:全米に展開したフィニッシングラボ
- 印画紙の製造
この垂直統合モデルにより、コダックはフィルム写真のバリューチェーン全体を支配した。競合他社がフィルムだけ、あるいはカメラだけを製造していたのに対し、コダックは「撮影から完成品まで」のすべてを一社で完結させた。
35mmフィルムの起源——映画用フィルムからの転用
エジソンとイーストマン——映画産業との邂逅
写真用フィルムの歴史を語るうえで避けて通れないのが、映画用フィルムとの関係である。
1891年、トーマス・エジソンの研究所で働いていたウィリアム・ケネディ・ローリー・ディクソンは、動画撮影装置「キネトグラフ」の開発にあたり、イーストマン・コダック製のセルロイドフィルムを使用した。ディクソンはフィルムの幅を35mm(約1⅜インチ)に規定し、両端にパーフォレーション(送り穴)を設けた。この35mmフィルムの規格は、リュミエール兄弟のシネマトグラフ(1895年)にも採用され、映画産業の世界標準となった。
つまり、35mmという規格はもともと映画のために生まれたものである。このフィルムが写真用に転用されるまでには、さらに数十年の時間を要した。
ライカの登場——35mmフィルムを写真に持ち込んだ男
35mmフィルムを写真用カメラに使うというアイデアを実現したのは、ドイツの光学メーカーErnst Leitz社の技術者オスカー・バルナックである。
バルナックは映画用カメラの開発に携わるなかで、35mm映画用フィルムの露出テスト用に小型のスチルカメラを試作した。1913年頃に完成した試作機「Ur-Leica」(原型ライカ)は、35mmフィルムを水平に走行させ、映画の1コマ(18×24mm)の2コマ分にあたる24×36mmの画面サイズで撮影するものだった。
この24×36mmという画面サイズが、後に「35mmフルサイズ」「ライカ判」として世界標準となる。デジタル時代の今日、「フルサイズセンサー」と呼ばれるセンサーサイズ(約36×24mm)は、バルナックがこのとき決定したフレームサイズに由来する。
第一次世界大戦の影響で商品化は遅れたが、1925年、Leitz社はライカI(Leica I)を市販した。ライカは写真の世界に革命をもたらした。
- 小型・軽量:ガラス乾板を使う大型カメラと比較して、ポケットに入るほど小さかった
- 高画質:精密なレンズ設計により、35mmの小さなネガから十分な画質の引き伸ばしが可能だった
- 機動性:36枚撮りのフィルムカートリッジにより、フィルム交換なしで多数の写真を連続撮影できた
- 静粛性:レンジファインダー式のため、一眼レフのようなミラーショックがなく、静かに撮影できた
ライカは特に報道写真の世界を変えた。アンリ・カルティエ=ブレッソン、ロバート・キャパ、アンドレ・ケルテスといった20世紀を代表する写真家たちがライカを愛用し、「決定的瞬間」の美学を確立した。
35mmフィルムの普及——コダックの対応
ライカの成功を受け、35mmフィルムカメラは1930年代に急速に普及した。ドイツではツァイス・イコンのコンタックス(1932年)、日本ではキヤノン(1936年)やニコン(1948年)が35mmカメラ市場に参入した。
コダックも35mm市場に対応した。1934年、コダックは写真用の35mmフィルムを「135フィルム」として規格化し、パトローネ(金属製カートリッジ)入りの形態で販売を開始した。この135フィルムの規格は、2026年の現在もなお変わっていない。あなたが今日、カメラ店で35mmフィルムを買えば、それは1934年にコダックが規定したのと同じ規格のフィルムである。
ブローニーフィルム(120フィルム)——中判写真の標準
120フィルムの誕生
35mmが「小型カメラ」の標準になる一方で、コダックが1901年に導入したブローニーフィルム(120フィルム)は中判カメラの標準規格となった。
120フィルムは、裏紙(バッキングペーパー)にフィルムを重ねてスプールに巻いたもので、裏紙がフィルムの遮光と巻き上げ位置の確認(裏紙に印刷された番号を赤窓で読む)を兼ねる。画面サイズはカメラによって異なり、6×4.5cm、6×6cm、6×7cm、6×9cmなど多様なフォーマットが存在する。
35mmと比較した120フィルムの利点は、圧倒的に大きなネガサイズにある。6×6cmのネガ面積は約36cm²で、35mmフルサイズ(24×36mm=8.64cm²)の約4倍以上。この差はそのまま画質の差となり、引き伸ばしに対する耐性が格段に高い。
中判カメラの黄金時代
120フィルムを使用するカメラは、20世紀を通じてプロフェッショナル写真の主力であり続けた。ファッション写真、風景写真、ポートレート、商業写真——画質が要求されるあらゆる分野で中判カメラが活躍した。
代表的な中判カメラとしては以下が挙げられる。
- ローライフレックス(Rolleiflex、1929年〜):ドイツ製の二眼レフカメラ。6×6cm判。ウエストレベルでの撮影スタイルが特徴で、ストリートフォトグラフィーからファッション写真まで幅広く使われた。ヴィヴィアン・マイヤー、ダイアン・アーバスらが愛用
- ハッセルブラッド(Hasselblad、1948年〜):スウェーデン製の6×6cm判一眼レフ。モジュラー構造で、ボディ、レンズ、フィルムバック、ファインダーを個別に交換可能。NASAのアポロ計画で月面撮影に使用されたことでも知られる
- マミヤRB67 / RZ67:日本製の6×7cm判一眼レフ。大型で重量級だが、蛇腹によるティルト機能と回転式フィルムバックを備えたスタジオ用の定番機
- ペンタックス67:日本製の6×7cm判。35mm一眼レフを巨大化したようなデザインで、「バケペン」の愛称で親しまれた
日本のフィルム産業の誕生——小西六と富士写真フイルム
小西六写真工業(後のコニカ)
日本における写真産業の歴史は、1873年(明治6年)に東京・小川町で創業した「小西屋六兵衛店」(小西本店)に遡る。当初は写真材料の輸入販売を行っていたが、1903年に国産初の写真用印画紙の製造を開始し、1929年には初の自社製写真フィルム「さくらフイルム」を発売した。
小西六は後にコニカミノルタとして知られるようになるが、その歴史はまさに日本の写真産業の歴史そのものである。
富士写真フイルムの創業(1934年)
1934年、大日本セルロイド(現・ダイセル)の写真フィルム事業部門が分離独立し、「富士写真フイルム株式会社」が神奈川県足柄上郡に設立された。設立の背景には、当時の日本政府の国産フィルム育成政策があった。写真フィルムは軍事用途(航空写真偵察など)にも不可欠であり、輸入依存からの脱却が国策として求められていたのである。
創業当初の品質はコダックやアグファに遠く及ばなかったが、足柄工場の技術者たちは品質改善に邁進した。富士フイルムが世界市場でコダックと互角に競争できるようになるのは戦後のことであるが、その種は1930年代に蒔かれていた。
戦前の日本フィルム市場
1930年代の日本のフィルム市場は、以下のような構造だった。
- 輸入フィルム:コダック(アメリカ)とアグファ(ドイツ)が市場を支配。品質・ブランド力ともに国産品を凌駕
- 国産フィルム:小西六の「さくらフイルム」と富士写真フイルムの「富士フイルム」が二大ブランド。品質は輸入品に劣るが、価格面で優位
- 軍需:航空偵察用フィルム、X線フィルムなどの需要が国産メーカーの成長を支えた
日本のフィルム産業が本格的に離陸するのは第二次世界大戦後であり、その詳細は第5章で扱う。
コダックの黄金時代——1920〜1930年代
フィルムの改良と新製品
1920〜1930年代、コダックは矢継ぎ早にフィルム技術の革新を行った。
- パンクロマティックフィルム(1906年導入、1920年代に普及):従来のオルソクロマティック(赤色に感度がない)フィルムに対し、可視光全域に感度を持つフィルム。赤い花、肌の色、空の青などを正確なトーンで再現できるようになった
- 安全フィルム(セルロースアセテートベース):1908年に導入開始。硝酸セルロースの危険な可燃性を解消したが、初期は強度と透明度に問題があり、映画用フィルムでの完全移行は1950年代まで待たなければならなかった
- コダクローム(1935年):世界初の実用的なカラーフィルム。次章以降で詳述するが、この製品はフィルム写真の歴史における最大の技術革新のひとつである
コダックの市場支配
1930年代までに、コダックは世界のフィルム市場で圧倒的な支配力を確立した。アメリカ国内のフィルム市場シェアは推定80〜90%に達し、世界市場でも50%以上を占めていたとされる。
この支配力の源泉は、技術力だけではなかった。
- ブランド力:「コダック」は「写真を撮る」の同義語に近い存在になっていた。「Kodak moment」(コダック・モーメント=写真に収めたい瞬間)という表現が英語に定着したほどである
- 流通網:全米の薬局、雑貨店、百貨店にコダック製品が並んだ。フィルムの購入と現像サービスの受付が身近な店舗で完結する体制が整備されていた
- 価格設定力:フィルム市場の支配的プレイヤーとして、価格設定をコントロールできた。低価格のカメラで市場を拡大し、フィルムと現像サービスで利益を回収するモデルが完成していた
- 研究開発:ロチェスターの巨大な研究所には数千人の科学者・技術者が在籍し、フィルム化学、光学、印画紙、カメラの研究開発を行っていた
写真が「晴れの日」のものだった時代
特別な日のための記録
1900〜1930年代において、写真撮影は日常的な行為ではあり得なかった。ブローニーカメラが1ドルにまで値下がりしたとはいえ、フィルムと現像にはその都度コストがかかる。6枚撮りの117フィルムが15セント、現像とプリントが数十セント——1回の撮影サイクルで50セント〜1ドル程度のコストは、大恐慌期(1929年以降)の一般家庭にとって決して軽い出費ではなかった。
その結果、人々は「フィルムを大切に使った」。撮影される被写体は厳選された。
- 家族写真(集合写真、子どもの成長記録)
- 旅行の記念写真
- 結婚式、洗礼式、卒業式
- クリスマス、感謝祭などの祝祭日
- 新しい家や車の購入記念
日常の食事風景や通勤途中の街角を撮影する人はほとんどいなかった。フィルムは「消費」するにはまだ高価で、写真は「特別な日」に結びついた行為だった。
「コダック・カルチャー」の形成
この時代に形成された「写真=特別な日の記録」という文化は、コダックのマーケティングによって強化された。コダックの広告は一貫して、家族のイベント、子どもの笑顔、休暇の風景を描いた。「Keep the Story with a Kodak」(コダックで思い出を残そう)、「Let Kodak keep the story」といったスローガンが繰り返し使われた。
写真アルバムの文化もこの時期に定着した。撮影した写真はプリントされ、アルバムに整理され、家族の物語として保存された。この「撮影→現像→プリント→アルバム」というサイクルは、デジタル写真が普及するまで約100年間にわたって世界中で実践された。
ヨーロッパのフィルム産業——アグファとイルフォード
アグファ(ドイツ)
アグファ(Agfa, Aktiengesellschaft für Anilinfabrikation)は1867年にベルリン近郊で創業した染料メーカーである。写真事業への参入は1890年代で、ゼラチン乾板と印画紙の製造から始まった。
1925年、アグファはドイツ最大の化学コングロマリットIG Farben(イー・ゲー・ファルベン)に統合された。IG Farbenの巨大な研究開発リソースを背景に、アグファはフィルム技術で世界トップクラスの地位を確立した。1936年にはアグファカラーネウ(Agfacolor Neu)を発表し、コダックのコダクロームに対抗する独自のカラーフィルム技術を確立した。
第二次世界大戦後、IG Farbenは連合国によって解体され、アグファはレバクーゼンの西ドイツ部門と、ヴォルフェン(Wolfen)の東ドイツ部門に分割された。東ドイツ部門は後にORWOとして知られることになる。
イルフォード(イギリス)
イルフォード(Ilford)は1879年にロンドン東部のイルフォード地区で、アルフレッド・ヒュー・ハーマンによって創業された。ゼラチン乾板の製造から始まり、印画紙、フィルムへと事業を拡大した。
イルフォードは特にモノクロ写真の分野で高い評価を得た。HP5、FP4、Pan Fといったフィルムブランドは、世界中のプロフェッショナル写真家から支持された。イルフォードはカラーフィルム市場ではコダックやアグファに対抗できなかったが、モノクロフィルムと印画紙に特化する戦略を取ったことが、後の生き残りにつながる。
リュミエール(フランス)
リュミエール兄弟(オーギュストとルイ)は映画の発明者として広く知られているが、彼らの写真材料事業も欧州最大級のものだった。1882年にリヨンで写真乾板工場を設立し、1900年代初頭にはヨーロッパ最大の写真乾板メーカーとなった。
1907年にはオートクローム(Autochrome)と呼ばれる世界初の実用的なカラー写真プロセスを発売した。着色したジャガイモ澱粉の微粒子をガラス板上に敷き詰め、その上に感光乳剤を塗布するという独創的な方法だった。オートクロームは1930年代までカラー写真の主要な方法として使われた。
写真の用途の拡大——ジャーナリズム、芸術、科学
報道写真の誕生
1920〜1930年代は、写真がジャーナリズムの主要な手段として確立した時期でもある。印刷技術の進歩(特にハーフトーン印刷の普及)により、新聞や雑誌に写真を掲載することが一般的になった。
ドイツの「Berliner Illustrirte Zeitung」やアメリカの「LIFE」誌(1936年創刊)は、大判の写真を主体としたレイアウトで読者を魅了した。エーリッヒ・ザロモン、アルフレッド・アイゼンスタット、マーガレット・バーク=ホワイトといった写真家たちが、小型の35mmカメラ(主にライカとコンタックス)を駆使して、政治、社会、戦争を記録した。
この時代、フィルムの高感度化はジャーナリズムに直接的な影響を与えた。暗い室内や夜間でも撮影可能になったことで、写真家はスタジオを離れ、「現場」に入り込むことができるようになった。
芸術写真の展開
アルフレッド・スティーグリッツ、エドワード・ウェストン、アンセル・アダムスといった写真家たちは、写真を絵画に従属する「複製技術」ではなく、独立した芸術表現として確立しようとした。アダムスが提唱した「ゾーンシステム」は、露出と現像を精密にコントロールすることで、フィルムのラティチュード(階調再現域)を最大限に活用する技法であり、フィルム写真の芸術的可能性を拡大した。
科学・医療・航空偵察
フィルムは芸術や報道だけでなく、科学の記録手段としても不可欠だった。天文写真、顕微鏡写真、X線写真(レントゲン写真)——これらの分野では、フィルムの高解像度と長時間露光の能力が活用された。
特にX線フィルムは、コダックにとって重要な収益源だった。医療用X線フィルムの市場はデジタル化が進む2000年代まで巨大であり、コダックの利益を支え続けた。
航空偵察用フィルムも重要だった。第一次世界大戦と第二次世界大戦を通じて、航空写真偵察は軍事作戦の中核技術となり、高感度・高解像度のフィルムの需要は国家安全保障に直結した。コダックとアグファは両大戦を通じて軍需フィルムの主要供給者だった。
本章のまとめ——フィルムが「産業」になった時代
1888年から1930年代までの約50年間に、写真用フィルムは以下のような変容を遂げた。
- 1ドルカメラの衝撃:ブローニーカメラがフィルム写真を「誰でも」のものにした
- 35mmフィルムの誕生:映画用フィルムから転用された35mmが、ライカを経て写真の世界標準となった
- 120フィルムの確立:中判写真の標準規格として、プロフェッショナル市場を支配した
- フィルム産業の形成:コダック、アグファ、イルフォード、リュミエール、小西六、富士写真フイルムが揃い踏み
- ビジネスモデルの確立:「カメラを安く売り、フィルムで儲ける」構造が完成した
- 写真文化の形成:写真は「特別な日」の記録手段として社会に定着した
しかし、この時代の写真はまだ「モノクロ」が圧倒的主流だった。カラー写真は存在したが(オートクロームなど)、高価で扱いが難しく、一般市民には手が届かなかった。
カラーフィルムの民主化——それが次のフロンティアである。コダクロームの登場と、それに続くカラーネガフィルムの普及は、写真の歴史に再び革命をもたらす。その物語は第4章で描く。
次章ではまず、35mm、120、大判というフィルムフォーマットの覇権争いと、消えていった規格たちの物語を描く。
フィルム・クロニクル
Part I:銀塩写真の誕生と発展(19世紀〜20世紀前半)
- 1.写真の記録方法の概観——ダゲレオタイプからロールフィルムへ(1839〜1900年代)
- 2.Kodakの革命——「You Press the Button, We Do the Rest」(1888〜1930年代)
- 3.フィルムフォーマット戦争——35mm、120、大判、そして消えた規格たち
Part II:フィルムの黄金時代(1950年代〜1990年代)
- 4.カラーフィルムの民主化——Kodachrome、Ektachrome、Fujicolor
- 5.フィルムメーカーの群雄割拠——Kodak・Fujifilm以外の巨人たち
- 6.インスタントカメラの衝撃——Polaroid、特許戦争、そしてInstaxの世紀
- 7.写真が「消費」されるものになった時代——使い捨てカメラ、ミニラボ、そしてフィルム消費のピーク
Part III:デジタルの衝撃とフィルムの退潮(1990年代〜2010年代)
- 8.デジタル写真の黎明——フィルムを殺す技術はフィルム会社から生まれた
- 9.カメラ付き携帯電話——写真を「撮る」から「送る」へ変えた破壊者
- 10.フィルムカメラメーカーの淘汰——2000年代、消えたブランドと残ったブランド
- 11.デジタル一眼レフ時代のフィルム——「暗黒時代」を生き延びた銀塩の灯火
Part IV:フィルムの復興(2010年代〜現在)
- 12.フィルムリバイバルの始まり——SNS世代が銀塩に手を伸ばした理由
- 13.Kodakの復活——破産から再びフィルムを世界に届けるまで
- 14.Fujifilmのフィルム戦略——「フィルムの会社」が選んだ縮小と拡大の二重奏
- 15.新興・復活フィルムメーカー——ポストKodak/Fujifilm時代の製造地図
- 16.現行フィルムカメラ——2025年、新品で買えるフィルムカメラの世界地図
- 17.中古フィルムカメラ市場——「新品が存在しない」時代の流通構造
- 18.フィルム写真のコスト構造——1枚のシャッターに、いくらかかるのか
- 19.フィルム写真の現在と未来——誰がフィルムを選び、なぜ撮り続けるのか
Part V:総括
- 20.総括——銀塩写真が問い続けるもの
典拠一覧
- Brian Coe, Kodak Cameras: The First Hundred Years, Hove Foto Books, 1988
- Reese V. Jenkins, Images and Enterprise: Technology and the American Photographic Industry 1839 to 1925, Johns Hopkins University Press, 1975
- Douglas Collins, The Story of Kodak, Harry N. Abrams, 1990
- George Eastman Museum, “History of Kodak” — https://www.eastman.org/history-kodak
- Todd Gustavson, Camera: A History of Photography from Daguerreotype to Digital, Sterling Innovation, 2009
- Rudolf Kingslake, A History of the Photographic Lens, Academic Press, 1989
- 日本写真学会(編)『写真の百科事典』朝倉書店、2014年
- コニカミノルタ公式サイト「コニカミノルタの歴史」— https://www.konicaminolta.com/jp-ja/corporate/history/
- 富士フイルム公式サイト「富士フイルムの歩み」— https://www.fujifilm.com/jp/ja/about/history
- Grant Romer & Thelma Shinn, “The Brownie Camera” in History of Photography, Vol. 23, No. 2, 1999
- Helmut Gernsheim, A Concise History of Photography, Dover Publications, 1986
- Dennis Laney, Leica Collectors Guide, Hove Books, 1992


