カメラ覇権の地殻変動——日本メーカー独占の終わりは来るのか(7)

7-1. 「非日本レンズメーカー」の系譜
カメラ用交換レンズの世界は、長らく日本メーカーの独壇場だった。キヤノン、ニコン、ソニーの純正レンズに加え、シグマ、タムロン、トキナーといったサードパーティメーカーもすべて日本企業である。コシナ(Voigtländerブランド)を加えれば、世界の交換レンズ市場における日本メーカーの支配は圧倒的だ。
だが、この「日本一強」の構図は絶対ではない。第4章で中国レンズメーカーの台頭を、第5章でシネレンズ市場への進出を、第6章でマウント戦略による参入の加速と阻害を見てきた。本章では視野をさらに広げ、「非日本レンズメーカー」の系譜を描く。韓国のサムヤン、ドイツの伝統的光学メーカー、そしてフランス・英国のシネレンズメーカー——彼らはそれぞれ異なる戦略で市場に存在し、中国メーカーの台頭に異なる形で直面している。
7-2. サムヤン(韓国)——孤高の韓国レンズメーカー
韓国唯一のレンズ設計・製造企業
韓国のレンズ交換式カメラ用レンズメーカーは、事実上サムヤン1社しか存在しない。日本にはキヤノン、ニコン、ソニー、シグマ、タムロン、コシナ、トキナーと7社以上が並び、中国には第4章で見たように数十社がひしめく。ドイツにはツァイス、シュナイダー、ライカがある。だが韓国には、サムヤンだけだ。
サムヤン(正式社名:LKサムヤン株式会社)は1972年、韓国・慶尚南道の馬山(マサン、現・昌原市)で設立された。創業当初の社名は「韓国ワコー株式会社」で、日本のレンズメーカーのOEM(相手先ブランド製造)を主業務としていた。従業員約150名、58カ国への輸出という規模は、中国の大手レンズメーカーViltroxやDZOFilmと比べても決して大きくない。
OEMから自社ブランドへ——85mm f/1.4の転機
サムヤンの歴史を語るうえで、2008年は決定的な転換点だ。同社はこの年、「Samyang 85mm f/1.4 AS IF UMC」を発売した。マニュアルフォーカス専用ながら、フルサイズ対応の大口径中望遠レンズが3万円台で買える——この価格破壊は欧米市場で大きな反響を呼んだ。英国のDigital Photo誌とPractical Photography誌から「Gear of the Year ベストバジェットレンズ」を受賞し、サムヤンの名を世界に知らしめた。
この成功の背景にあったのは、サムヤンが長年のOEM経験で蓄積した光学設計と製造技術だ。自社ブランドのレンズを安価に提供できたのは、韓国国内での一貫生産体制と、日本メーカーに比べて低い人件費が可能にしたコスト構造による。
複数ブランド戦略——Rokinon、Bower、Walimex
サムヤンの独特な市場戦略が、地域別ブランド名の使い分けだ。同一のレンズが、市場によって異なるブランド名で販売されていた。
- Samyang:韓国・アジア・一部欧州市場
- Rokinon:北米市場(主にB&H Photo等の大手小売店経由)
- Bower:北米市場(別の流通チャネル)
- Walimex Pro:ドイツ・欧州市場
この戦略は、各地域の流通パートナーとの関係維持のために採られたものだが、消費者にとっては「Rokinonとは何か、Samyangと同じなのか」という混乱を招いた。2024年3月28日の社名変更(サムヤンオプティクス → LKサムヤン)を機に、ブランドの統一が進んでいる。「LK」は「Leading Korea」の略であり、親会社LKグループとの一体化を示す。
ミラーレス時代のAFレンズへの転身
サムヤンの第二の転換点は、マニュアルフォーカス(MF)からオートフォーカス(AF)への移行だ。2016年頃から本格的にAFレンズの開発を開始し、ソニーEマウント向けのAFレンズを次々と投入した。
AF 50mm f/1.4 FE、AF 35mm f/2.8 FE、AF 75mm f/1.8 FEなど、小型軽量かつ手頃な価格のAFレンズ群は、ソニーユーザーに歓迎された。ポーランドのレンズレビューサイトLensTipは、Samyang AF 50mm f/1.4 FE IIのレビューにおいて、ソニー純正FE 50mm f/1.4 GMに匹敵する光学性能を認めている。
さらにシネマ用レンズブランド「XEEN」シリーズでは、プロ映像制作向けの市場にも進出。XEEN CFシリーズはカーボンファイバー筐体を採用し、軽量かつ高画質なシネプライムとして評価されている。
シュナイダー・クロイツナッハとの提携
2025年、サムヤンはドイツの名門光学メーカー、シュナイダー・クロイツナッハ(Schneider-Kreuznach)との共同開発製品を発表した。CP+ 2025で公開された「AF 14-24mm F2.8 FE」は、シュナイダーの光学設計ノウハウとサムヤンの製造技術を融合させた超広角ズームレンズだ。
シュナイダーのCEO、ヴォルフガング・ウルリッヒ博士は「当社の光学分野における専門知識を活かし、スチル写真市場でのプレゼンスを拡大できることを嬉しく思う。LKサムヤンとの協業は当社にとって重要な一歩だ」とコメントしている。この提携は、韓国とドイツの光学技術の融合という点で、カメラレンズ業界では異例のものだ。
中国メーカーとの競合——「先駆者」の苦悩
サムヤンが直面する最大の課題は、かつて自社が切り拓いた「安価なサードパーティMFレンズ」市場を、中国メーカーが桁違いのスケールで侵食していることだ。
サムヤンの85mm f/1.4が「3万円台で買える大口径中望遠」として衝撃を与えた2008年当時、中国レンズメーカーはまだ黎明期にあった。しかし2020年代の今、TTArtisanは56mm f/1.4を1万円台で、7Artisansは55mm f/1.4を同じく1万円台で提供している。サムヤンの価格優位性は、中国メーカーの台頭によって大幅に縮小した。
サムヤンの対応策は、AFレンズへの全面シフトと、品質の差別化だ。MFレンズ市場では中国メーカーと価格で競争することは不可能に近い。だが、AF性能、レンズコーティング品質、ファームウェア対応の速さといった技術的優位性では、依然としてサムヤンが先行している。シュナイダーとの提携も、「Made in Korea + German Optics」というブランド価値の構築を目指したものだ。
2023年7月にはLマウントアライアンスにも加盟。ライカ、パナソニック、シグマに次ぐ参加企業として、マウント対応の幅を広げている。さらに2024年の社名変更に際しては、機械ビジョン、サーマルカメラ、ドローン用レンズ、LiDARといった産業用光学への事業多角化も宣言している。消費者向けカメラレンズだけでなく、産業用光学への進出によってリスク分散を図る戦略だ。
7-3. ドイツの光学遺産——Zeiss、Schneider-Kreuznach、Meyer Optik Görlitz
ドイツは光学産業の発祥地のひとつであり、カール・ツァイス、ライカ、シュナイダー・クロイツナッハといった世界的ブランドを生んだ。だが21世紀のカメラ用レンズ市場において、ドイツメーカーの存在感は劇的に変化している。
カール・ツァイス——写真用レンズからの実質的撤退
カール・ツァイス(Carl Zeiss AG)は、写真用レンズの歴史において最も重要な名前のひとつだ。テッサー、プラナー、ゾナー、ディスタゴン——これらの光学設計名は、レンズ設計の教科書に登場する古典的な名称であり、今なおシネマレンズの世界で使われている。
しかし、2020年代のツァイスは写真用レンズから実質的に撤退した。
- Otus(オータス)シリーズ:2019年4月に最後の製品Otus 100mm f/1.4を発表して以降、新製品なし
- Milvus(ミルバス)シリーズ:一眼レフ用MFレンズ。新規開発停止
- Batis(バティス)シリーズ:ソニーEマウント用AFレンズ。新規開発停止
- Loxia(ロキシア)シリーズ:ソニーEマウント用MFレンズ。2025年9月、製造委託先のケンコー・トキナーが生産終了を公表し、正式にディスコンとなった
ツァイスのオーストラリア販売代理店が「ツァイスはすべてのスチルレンズとフィルターのディスコンを確認した」と述べたことがDPReviewやPetaPixelで報じられ、事実上の写真用レンズ撤退と受け止められた。ツァイス自身は2023年に「写真市場から撤退するわけではない」と声明を出しているが、2019年以降に新しい写真用レンズは一本も発表されていない。
ツァイスが注力を移した先はシネマレンズだ。Supreme Prime、CP.3、そして2026年発表の新シリーズ「Aatma」は、1本2万950ドル〜2万5,500ドルという超高級シネプライムレンズだ。ツァイスにとって、利益率の低い写真用レンズよりも、1本数百万円のシネレンズのほうが収益性が高い。そしてツァイス財団は顕微鏡、内視鏡、産業用光学、半導体リソグラフィなど、カメラ用レンズをはるかに超える巨大な光学帝国を擁している。写真用レンズは、ツァイスの事業ポートフォリオにおいて極めて小さなセグメントに過ぎなかった。
シュナイダー・クロイツナッハ——産業用光学の巨人、写真市場への再参入
シュナイダー・クロイツナッハ(Schneider-Kreuznach)は1913年創業のドイツ光学メーカーで、現在の主力は産業用光学だ。マシンビジョン(工場自動化の画像認識)用レンズ、放送用レンズが事業の中核を占める。また、写真用フィルターブランド「B+W」の運営でも知られる。
かつてのシュナイダーは、大判カメラ用レンズ(Super-Angulon、Symmarなど)で写真家に親しまれた名門だった。しかし大判写真の市場縮小とともに、消費者向け写真用レンズからはほぼ撤退していた。
そのシュナイダーが、前述のサムヤンとの提携を通じて写真用ミラーレスレンズ市場に再参入した。2025年4月発売の「AF 14-24mm F2.8 FE」が、シュナイダーにとって初のミラーレスカメラ用写真レンズとなる。この提携は、シュナイダーの光学設計力とサムヤンの製造・AF技術の補完関係を活かしたものであり、両社にとってウィンウィンの関係だ。
Meyer Optik Görlitz——ドイツの幽霊ブランドの復活
Meyer Optik Görlitz(マイヤー・オプティック・ゲルリッツ)は、1896年にドイツ・ゲルリッツで創業した光学メーカーだ。トリオプラン(Trioplan)、プリモプラン(Primoplan)といったレンズ名は、バブルボケ(シャボン玉のような丸いボケ)で知られ、オールドレンズ愛好家の間でカルト的な人気を誇る。
東ドイツ時代にVEB Pentaconに吸収され、ドイツ統一後に消滅。その後、2014年にnet SEという企業がブランドを復活させてKickstarterで資金を集めたが、製品の出荷遅延と品質問題が頻発し、net SEは2018年に破産した。
現在のMeyer Optik Görlitzは、2018年12月にブランドを取得したOPC Optics(バート・クロイツナッハ拠点、シュナイダーと同じ都市)が運営している。全レンズをドイツ国内で手作業で組み立て、少量生産・高価格のニッチ戦略を展開する。
現行ラインナップは以下の通りだ。
- Trioplan 50 f/2.8 II:バブルボケの代名詞
- Trioplan 100 f/2.8 II:中望遠バブルボケ
- Primoplan 58 f/1.9 II:クラシカルな描写の標準レンズ
- Primoplan 75 f/1.9 II:ポートレート向け中望遠
- Lydith 30 f/3.5 II:広角レンズ
- Biotar 75 f/1.5 II:ぐるぐるボケで知られる大口径レンズ
すべてマニュアルフォーカス専用で、ソニーEマウント、ライカMマウントに加え、ニコンZマウント、キヤノンRFマウント、ライカRマウントのネイティブバージョンも展開。価格は1本1,000ユーロ前後(約16万円)からで、中国製MFレンズの10倍以上になる。
Meyer Optik Görlitzの戦略は、中国メーカーとの価格競争を一切放棄し、「ドイツ製ハンドメイド」「クラシカルな描写特性」「唯一無二のボケ味」というブランド価値で勝負するものだ。ライカのレンズ戦略と通底する、「量より質」のアプローチである。
7-4. コシナ / Voigtländer——日本製だが特殊な位置づけ
コシナ(Cosina)は日本の長野県中野市に本社を置くレンズ・カメラ製造企業で、1959年に創業された。売上高約85億円、従業員200〜500名規模の中堅企業だが、そのポジションは日本のカメラ産業の中で極めて特異だ。
Voigtländerブランドの「番人」
コシナが世界的に知られるようになったのは、1999年にドイツのフォクトレンダー(Voigtländer)ブランドのライセンスを取得して以降だ。Voigtländerは1756年創業のオーストリア(後にドイツ)の光学メーカーで、世界最古のカメラメーカーのひとつとされる。現在のブランド権はドイツのRINGFOTO GmbHが保有し、コシナがライセンス契約の下で製品を設計・製造・販売している。
Voigtländerブランドの交換レンズは、すべてマニュアルフォーカスだ。金属鏡筒、精密なヘリコイド、滑らかなフォーカスリング——コシナのレンズは、AF全盛の時代にあって「手で操作する光学機器」の価値を追求し続けている。
主力シリーズと展開マウント
Voigtländerレンズは、大きく以下のシリーズに分類される。
- Nokton:大口径の実用レンズ。f/1.2〜f/1.4クラスを中心に、描写力と明るさを両立
- APO-LANTHAR:アポクロマート設計の超高性能レンズ。色収差を極限まで排除した精密描写が特徴
- Classic:クラシカルな光学設計を最新技術で再構成。レトロな味わいのある描写
- Vintage Line:最先端の光学性能とクラシカルな外装デザインの融合
- HELIAR:コンパクトな中口径レンズ
対応マウントは多岐にわたる。ライカMマウント(VMマウント)が最大のラインナップを誇り、ソニーEマウント、ニコンZマウント、富士フイルムXマウント、マイクロフォーサーズにも展開。2026年のCP+では、ニコンZマウント用のNokton Classic 35mm f/1.4や、VMマウント用のApo-Skopar 75mm f/2.8、Apo-Lanthar 90mm f/4のプロトタイプも発表されている。
さらにコシナは、ツァイスのZMマウント(ライカMマウント互換)レンズの製造も受託してきた。ツァイスのMilvusシリーズやOtusシリーズもコシナが製造を受託していた(なお、Loxiaシリーズの製造はケンコー・トキナーが担当していた)。レンズ製造のOEMメーカーとしてのコシナの技術力は、業界内で高く評価されている。
中国MFレンズメーカーとの「同じ土俵」
Voigtländerが直面する競争環境は、サムヤン以上に中国メーカーとの直接競合だ。なぜなら、Voigtländerも中国メーカー(TTArtisan、7Artisans、銘匠光学等)も、同じ「マニュアルフォーカス・大口径・プライムレンズ」という土俵で戦っているからだ。
たとえば、ライカMマウント用の35mm f/1.4レンズを考えてみよう。
- Voigtländer Nokton Classic 35mm f/1.4:約7〜8万円
- TTArtisan 35mm f/1.4 ASPH:約1.5万円
- 7Artisans 35mm f/1.4:約1.2万円
価格差は5〜6倍だ。光学性能、機械的精度、コーティング品質においてVoigtländerが上回ることは間違いないが、「MFレンズ」というカテゴリにおいて、中国メーカーの超低価格レンズは強力な代替選択肢となっている。特にライカMマウント用レンズ市場は、オールドレンズ愛好家や趣味性の高いユーザーが中心であり、「安価に多くのレンズを試したい」というニーズには中国メーカーのレンズが合致する。
コシナの対応は明確だ——「圧倒的な品質差」で価格差を正当化する。APO-LANTHARシリーズのアポクロマート設計は、中国メーカーのレンズでは到達できない次元の色収差補正を実現している。Noktonシリーズの滑らかなヘリコイドの操作感は、数十年のレンズ製造経験が生む「手触り」であり、これは短期間では模倣できない。
加えて、コシナは新しい特許を出願している。75mm f/1.4、85mm f/1.4、100mm f/1.4といった超大口径の中望遠レンズの開発が進行中とみられ、中国メーカーが追随しにくい高度な光学設計で差別化を図る方針が見て取れる。
7-5. 英国とフランスのシネレンズメーカー——Cooke OpticsとAngénieux
本連載の第5章で中国のシネレンズメーカーの台頭を論じたが、シネマレンズの世界には日本メーカー以外にも長い歴史を持つ欧州のメーカーが存在する。特に英国のCooke Optics(クック・オプティクス)とフランスのAngénieux(アンジェニュー)は、ハリウッドを中心とした映画産業の根幹を支えてきた「非日本メーカー」の代表格だ。
Cooke Optics——「クック・ルック」を生んだ英国の名門
Cooke Opticsの起源は1893年に遡る。英国ヨークのT. Cooke & Sons社に勤務していた光学技師H・デニス・テイラーが設計し、レスターのTaylor, Taylor & Hobson社(後のテイラー・ホブソン)が製造権を取得した「クック・トリプレット」レンズは、3枚構成で収差を補正する画期的な光学設計であり、現代のレンズ設計の基礎を築いた。「クック」の名はT. Cooke & Sonsに由来する。20世紀を通じて映画用レンズの標準を確立し、Speedシリーズは何十年にもわたってハリウッドのスタジオで使われ続けた。
1998年、映画用レンズ事業がCooke Opticsとして独立法人化された。現在の本社は英国レスター、従業員約75名の小規模企業だが、その影響力は規模をはるかに超える。Cookeのレンズが生み出す独特の映像特性は「クック・ルック(Cooke Look)」と呼ばれ、温かみのある自然な色再現、滑らかなボケ味、そして人肌を美しく描写する特性として、映画撮影監督から高く評価されている。
現行の主力製品は以下の通りだ。
- S8/i Full Frame:フルフレーム対応の最新シネプライムシリーズ。T1.4の大口径
- S7/i Full Frame:フルフレームシネプライム。T2.0
- Anamorphic/i Full Frame Plus:アナモルフィック(シネマスコープ)レンズ
- Panchro/i Classic:伝統的なクック描写を継承するクラシックシリーズ
- Varotal/i:シネマズームレンズ
2018年、英国の投資会社カレドニア・インベストメンツがCooke Opticsを買収した。映画産業が大判センサーカメラへ移行する中で設備投資の拡大が必要となり、資本力のあるオーナーの下で新製品開発を加速させる戦略だ。2025年1月にはデヴィッド・ハンコック氏が新CEOに就任し、経営体制も刷新された。
Cooke Opticsの売上の90%以上が輸出であり、60カ国以上に顧客を持つ。英国の製造業としてはきわめて高い輸出比率で、映画用レンズという超ニッチ市場が国際的に分散していることの証左でもある。価格帯は1本数千ドルから数万ドルと高額だが、ハリウッド映画やNetflix等のストリーミングプラットフォームの作品で広く採用されている。
Angénieux——フランス光学の至宝
Angénieux(アンジェニュー)は1935年、パリで、ピエール・アンジェニューによって創業された。1937年にフランス中部ロワール県サン=テアン(Saint-Héand、創業者の出身地)に第二工場を設立し、1940年にパリの工房を閉鎖して全面移転。以来、サン=テアンが本拠地となっている。創業者ピエール・アンジェニューは、レトロフォーカス型広角レンズの発明者として光学史に名を刻んでいる。一眼レフカメラのミラー機構と干渉しない広角レンズの設計は、その後のすべてのSLR用広角レンズの基礎となった。
Angénieuxは映画用ズームレンズの先駆者でもある。1960年代にはNASAのアポロ計画にもレンズを提供し、月面着陸の映像撮影にAngénieuxのレンズが使われた。アカデミー賞の科学技術賞を複数回受賞しており、映画産業への貢献は計り知れない。
現在のAngénieuxは、フランスの防衛・航空宇宙大手タレスグループ(Thales Group)の一部門である。売上高は約5,450万ドル(約82億円)規模と推定される。主力製品は以下の通りだ。
- Optimo Ultra 12xシリーズ:フルフレーム対応の超高倍率ズーム。24-290mm T2.8等
- Optimo Primeシリーズ:シネプライムレンズ群。アンジェニューらしい温かみのある描写
- EZ(Easy Zoom)シリーズ:比較的コンパクトなシネマズーム。ドキュメンタリーやニュース制作に対応
- Type EZシリーズ(Full Frame):フルフレームセンサー対応の最新ズーム
Angénieuxの特徴は、ズームレンズへの特化だ。Cookeがプライムレンズ中心であるのに対し、Angénieuxはシネマ用ズームレンズの世界的リーダーとして知られる。映画撮影においてズームレンズは「妥協」ではなく「表現手法」であり、Angénieuxの滑らかなズーム操作と均一な画質は、プライムレンズに匹敵する光学性能として評価されている。
タレスグループという巨大防衛企業の一部門であることは、Angénieuxに独特の安定性と制約を同時にもたらしている。軍事用光学、航空宇宙、暗視装置といった分野の技術がシネレンズにフィードバックされる一方、シネレンズ事業はタレスの数百億ユーロ規模の売上において微小なセグメントに過ぎない。ツァイスが財団の中でカメラレンズを縮小したように、Angénieuxの将来も親会社の戦略判断に左右される側面がある。
欧州シネレンズメーカーと中国メーカーの距離
第5章で見たように、DZOFilmやLaowaのVenusOpticsといった中国メーカーがシネレンズ市場に進出し、フルフレーム対応のシネズームを数十万円で提供し始めている。CookeやAngénieuxの製品が1本100万円〜500万円の世界であることを考えれば、価格差は10倍以上だ。
しかし、CookeとAngénieuxが中国メーカーから受ける脅威は、写真用レンズにおけるVoigtländerやサムヤンの状況とは質的に異なる。映画産業では「レンズの描写特性」そのものがクリエイティブの一部
であり、「クック・ルック」や「アンジェニューの色」は数十年にわたって映画撮影監督の間で共有されてきた視覚言語だ。価格が安いからといって、ハリウッドのAリスト撮影監督がDZOFilmに乗り換えるという事態は、少なくとも短期的には考えにくい。
だが、映像制作の裾野は急速に広がっている。YouTube、企業VP、インディペンデント映画の世界では、「80%の品質を20%の価格で」提供する中国製シネレンズの需要は着実に拡大している。CookeやAngénieuxの市場は最上位の劇場映画・大型ストリーミング作品に集中しており、このセグメントが浸食されるリスクは現時点では限定的だが、中長期的にはミッドレンジ市場での競合が顕在化する可能性がある。
7-6. 本章のまとめ——「非日本レンズメーカー」の多様な生存戦略
本章では、韓国のサムヤン、ドイツのツァイス・シュナイダー・Meyer Optik Görlitz、日本のコシナ / Voigtländer、英国のCooke Optics、フランスのAngénieuxという、中国以外の「非日本レンズメーカー」群の現在地を概観した。
彼らに共通するのは、日本メーカーの大量生産・大量販売モデルとは異なる生存戦略を持っていることだ。各社の戦略を整理すると、以下のようになる。
| メーカー | 国 | 主力セグメント | 生存戦略 | 中国メーカーとの距離 |
|---|---|---|---|---|
| サムヤン(LKサムヤン) | 韓国 | AF写真用レンズ | AF技術+シュナイダー提携で品質差別化、産業用光学へ多角化 | 直接競合(MF市場は放棄、AFで差別化) |
| カール・ツァイス | ドイツ | シネマレンズ(写真用は実質撤退) | 超高級シネレンズに集中、写真市場は利益率が合わず撤退 | 遠い(超高価格帯で棲み分け) |
| シュナイダー・クロイツナッハ | ドイツ | 産業用光学(+サムヤンとの共同写真レンズ) | 産業用光学が主力、写真市場はサムヤンとの提携で低リスク参入 | 間接的(サムヤン経由) |
| Meyer Optik Görlitz | ドイツ | MFニッチレンズ | ドイツ製ハンドメイド、クラシカルなボケ描写でカルト的ブランド価値 | 回避(超高価格+唯一無二の描写で差別化) |
| コシナ / Voigtländer | 日本 | MF高級写真用レンズ | 圧倒的な光学性能と機械精度で価格差を正当化 | 直接競合(同じMFレンズ市場だが品質で差別化) |
| Cooke Optics | 英国 | シネプライムレンズ | 「クック・ルック」という唯一無二のブランド、劇場映画に特化 | 遠い(ブランド価値と描写特性で棲み分け) |
| Angénieux | フランス | シネズームレンズ | タレスグループ傘下の安定基盤、シネズームの世界的リーダー | 遠い(超高品質ズームで棲み分け、ただしミッドレンジで潜在的競合) |
この表から浮かび上がるパターンは明確だ。中国メーカーとの距離が近いほど、差別化の圧力が大きい。サムヤンとコシナ / Voigtländerは中国メーカーと同じ「交換レンズ」市場で直接競合しており、それぞれ「AF技術+提携」「圧倒的品質」という異なる差別化戦略を採っている。一方、ツァイス、Cooke、Angénieuxは超高価格帯のシネレンズに特化することで、中国メーカーとの直接競合を回避している。
そして、もうひとつの重要な共通点がある。これらのメーカーのほとんどが、カメラ用レンズ以外の事業を持っていることだ。ツァイスは半導体リソグラフィや医療光学、シュナイダーはマシンビジョン、Angénieuxは軍事光学、サムヤンは産業用光学への多角化を進めている。カメラ用レンズ市場が縮小・低価格化しても、他の事業で収益を確保できる体制を整えている。
唯一の例外がコシナだ。コシナはカメラ用レンズの設計・製造に特化した企業であり、産業用光学への大規模な多角化は報じられていない。この「一本足打法」は、レンズ製造という領域における圧倒的な集中力と専門性を生む一方で、市場環境の変化に対する脆弱性をも意味する。コシナの今後の動向は、「専業メーカー」が中国メーカーの台頭にどう対応するかのケーススタディとなるだろう。
第Ⅱ部の最後となる本章を経て、レンズの世界における「非日本メーカー」の全体像が明らかになった。次章からの第Ⅲ部では、カメラとレンズを構成するサプライチェーンの深層に踏み込む。イメージセンサー、光学ガラス、画像処理チップ——日本メーカーの「独占」を支える、あるいは揺るがす要素技術の現状を見ていこう。
カメラ覇権の地殻変動——日本メーカー独占の終わりは来るのか
- 導入ガイド
- 第Ⅰ部:現状認識——日本は本当に「独占」しているのか
- 第Ⅱ部:レンズの世界——中国勢が「気がつけば席巻」しつつある領域
- 第Ⅲ部:サプライチェーンの深層——カメラは何でできているのか
- 第Ⅳ部:カメラボディメーカーの動向——国・地域別深掘り
- 13.中国のカメラボディメーカー——DJI、Zcam、Kinefinity、そして小米の野望
- 14.韓国のカメラ産業——Samsung撤退後の空白と復活の可能性
- 15.アメリカのカメラ産業——RED買収、コダックの遺産、シリコンバレーの計算写真
- 16.欧州のカメラ産業——Leica、ARRI、Phase One、Hasselblad(DJI傘下)
- 17.オーストラリア・台湾・インド——Blackmagic Designと新興勢力
- 第Ⅴ部:構造分析と未来予測
- 18.製造業の大移動——欧州→米国→日本→中国、歴史的パターンの分析
- 19.コンピュテーショナルフォトグラフィの衝撃——スマートフォンが変えた「写真」の定義
- 20.2030年のカメラ産業のシナリオ分析——日本メーカー独占の終わりは来るのか
- 21.総括——カメラ覇権の地殻変動は、どこへ向かうのか
関連記事
典拠一覧
本章の記述は以下の情報源に基づく。
サムヤン / LKサムヤン
- LK Samyang公式サイト — 会社沿革・製品情報(lksamyang.com)
- PetaPixel「Samyang Optics Rebrands to LK Samyang」2024年3月 — 社名変更に関する報道
- LensTip.com — Samyang AF 50mm f/1.4 FE IIレビュー
- Digital Photo / Practical Photography「Gear of the Year」— 85mm f/1.4受賞記録
- L-Mount Alliance公式発表 — サムヤン加盟(2023年7月)
- Schneider-Kreuznach公式プレスリリース — LKサムヤンとの共同開発AF 14-24mm F2.8 FE(CP+ 2025)
- ヴォルフガング・ウルリッヒ博士コメント — Schneider-Kreuznach CEOのプレスリリース引用
カール・ツァイス
- DPReview / PetaPixel — ツァイスのスチルレンズ・フィルターディスコン報道
- ツァイス公式声明(2023年)— 「写真市場からの撤退ではない」
- ケンコー・トキナー — Loxia生産終了公表(2025年9月)
- ツァイスAatmaシリーズ公式発表(2026年)— 価格・仕様情報
シュナイダー・クロイツナッハ
- Schneider-Kreuznach公式サイト — 会社概要・事業領域(創業1913年、マシンビジョン・放送用レンズ・B+Wフィルター)
Meyer Optik Görlitz
- Meyer Optik Görlitz公式サイト — 製品ラインナップ・価格情報
- OPC Optics — ブランド取得に関する情報(2018年12月)
- net SE破産に関する報道(2018年)
コシナ / Voigtländer
- コシナ公式サイト — 会社概要・Voigtländerレンズ製品情報
- RINGFOTO GmbH — Voigtländerブランドライセンスに関する情報
- CP+ 2026 — Nokton Classic 35mm f/1.4 ZRF、Apo-Skopar 75mm f/2.8 VM、Apo-Lanthar 90mm f/4 VMプロトタイプ発表
- コシナ特許出願情報 — 75mm f/1.4、85mm f/1.4、100mm f/1.4の光学設計
Cooke Optics
- Cooke Optics公式サイト — 会社沿革・製品情報
- Taylor, Taylor & Hobson — クック・トリプレットの歴史(1893年)
- カレドニア・インベストメンツ — Cooke Optics買収(2018年)
- Cooke Optics — デヴィッド・ハンコック新CEO就任(2025年1月)
- Cooke Optics年次報告 — 輸出比率90%以上、60カ国以上
Angénieux
- Angénieux公式サイト — 会社沿革・製品ラインナップ
- Thales Group — Angénieux事業部門情報
- NASAアポロ計画 — Angénieuxレンズの使用に関する歴史資料
- アカデミー賞科学技術賞 — Angénieux受賞歴




