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02|コダック対富士フイルム——フィルム二大巨頭の明暗

FUJIFILM
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🎞️20世紀の写真は、黄色い箱に支配されていた。世界中どこの店先にも「Kodak」の黄色が積み上がり、人々はシャッターチャンスのことを「コダック・モーメント」と呼んだ。その巨人に、極東の島国から一社の挑戦者が挑む。緑の箱を掲げた富士フイルムである。両者はおよそ半世紀にわたって火花を散らし——そして2012年、勝者と敗者は、誰の予想とも違う形で決した。

写真フィルムの歴史は、長いあいだ二つの会社の物語だった。イーストマン・コダックと富士フイルム。一方は市場そのものを生み出した王者であり、もう一方はその王座を脅かし続けた挑戦者である。緑と黄色、挑戦者と王者、東洋と西洋——対照的な二社は、フィルムという同じ土俵で半世紀を戦い抜いた。

そして物語の結末は、多くの人が予想した形とは逆になった。デジタルカメラを世界で最初に作ったのは、敗れたほうの会社だった。本章では、この二大巨頭がどう競い、どこで明暗を分けたのかを追う。それは富士フイルムという企業の「勝ち方」を理解するうえで、避けて通れない物語である。

黄色い巨人——コダックという原点

コダックを抜きに写真産業は語れない。1888年、ジョージ・イーストマンが「Kodak」カメラを世に送り出し、1892年に社名をイーストマン・コダックへ改めた同社は、それまで専門家のものだった写真を一般大衆の手に解き放った会社である。

同社の有名な広告コピー「You press the button, we do the rest(あなたはボタンを押すだけ、あとは我々がやる)」は、写真を「誰でも撮れるもの」へと変えた宣言だった。カメラにフィルムを詰めて売り、撮り終わったらカメラごと送り返してもらい、現像してプリントとともに返す——この仕組みそのものが、コダックの発明である。

以後コダックは、フィルムを売り、現像でも稼ぐビジネスモデルを確立した。重要なのは、コダックの本質が「カメラ屋」ではなく「フィルム屋」「現像屋」だったという点だ。カメラはフィルムを消費させるための入り口にすぎず、利益の源泉はあくまで銀塩フィルムと印画紙、そして現像薬品にあった。

1970年代半ばには、コダックは米国市場で写真フィルムの約9割、カメラの約85%を握り、ほぼ独占といってよい地位を築いていた。世界の写真は、文字どおり黄色い箱の上に成り立っていたのである。

緑の挑戦者——富士フイルムの上陸

その牙城に、極東から挑んだのが富士フイルムだった。

富士写真フイルムが米国法人 Fuji Photo Film U.S.A. を設立したのは1965年12月のことである。当初は小売向けの供給にとどまっていたが、1972年からは自社ブランドで、しかもコダックより安い価格でフィルムを売り始めた。本国アメリカの懐に、価格という刃で切り込んだのだ。

1980年代初頭の両社の体格差は、まだ歴然としていた。富士の売上はおよそ20億ドル、対するコダックは約100億ドル。実に5倍の開きがある。富士は文字どおりの「格下の挑戦者」だった。

だが、その伸び率は不気味だった。富士のシェアは年々着実に拡大していく。それでもコダックは、長らく富士を本気の脅威とは見なさなかった。社内のアナリストが富士の販売数の伸びを警告しても、経営陣は意に介さなかったという。ある業界記者は当時のコダックの空気をこう伝えている——「彼らは、アメリカの大衆がコダック以外のフィルムを買うとは信じていなかった」。

この油断こそ、王者がしばしば犯す過ちである。そして富士は、その隙を突く格好の舞台を見つける。オリンピックだ。

1984年、ロサンゼルス——五輪が変えた力学

両社の力関係を象徴的に塗り替えたのが、1984年のロサンゼルスオリンピックだった。

富士は1981年、500万ドルを投じて、いち早く公式スポンサーの座を射止める。コダックがスポンサー契約の是非をめぐって社内で逡巡しているあいだの、電光石火の決断だった。当時の米国の民生用フィルム市場はおよそ11億ドル規模で、その約85%をコダックが押さえていた。その巨人のお膝元で、緑の箱が「オリンピック公式フィルム」の称号を奪い取ったのである。

富士は会場に「フジオリンピックラボ」を設置し、現地で写真処理業務も担った。1983年度には輸出額1,896億円・輸出比率34.8%を記録しており、ロス五輪はまさに「世界の富士フイルム」を世界へ印象づける晴れ舞台となった。

もっとも、コダックも黙って王座を譲りはしなかった。公式スポンサーを逃した同社は、五輪中継のCM枠を大量に買い占め、さらに米国陸上チームのスポンサーに収まった。中継とCMを見た多くの視聴者は、コダックこそが公式スポンサーだと錯覚したという。実際の競技を生で見る観客よりも、テレビ中継を見る人々のほうがはるかに多い——コダックはそこを突いたのだ。

安くない金を払って公式スポンサーになった富士にとって、これは業腹な話だった。だが当時、競合のCMが大会期間中に流れることを禁じる契約上の縛りは存在しなかった。このコダックの一手は、のちに「アンブッシュ・マーケティング(待ち伏せ広告)」の古典的事例として、マーケティングの教科書に刻まれることになる。

アンブッシュ・マーケティング攻守逆転マトリクス
アンブッシュ・マーケティング攻守逆転マトリクス

皮肉なのは、その後の展開である。1998年の長野オリンピックでは立場が逆転し、今度はコダックが公式スポンサーとなり、富士が待ち伏せる側へ回った。攻守は、舞台が変わるたびに入れ替わったのだ。

レンズ付きフィルムの白兵戦——「写ルンです」

価格と五輪に続く第三の戦場が、レンズ付きフィルムだった。

1986年、富士は「写ルンです」を世に送り出す。フィルムにレンズとシャッターを組み合わせ、撮り終えたら店に出すだけ——カメラを持たない人でも気軽に写真が撮れるこの商品は、爆発的に売れた。これはかつてコダックが掲げた「ボタンを押すだけ」の思想を、使い切りという形で現代に蘇らせたものでもある。

コダックも FunSaver などのレンズ付きフィルムで追随した。富士は先駆者として市場を切り開いたが、米国市場ではコダックも強く、両社はこの分野でも激しく競った。安価で手軽な使い切りカメラは、デジタルカメラ普及前夜の1990年代から2000年代初頭にかけて、富士の重要な収益源であり続けた。

日米フィルム摩擦——301条とWTO

両社の競争は、ついに国家間の通商問題にまで発展する。

1995年5月、コダックは米国通商代表部(USTR)に対し、米通商法301条に基づく提訴を行った。日本のフィルム市場は閉鎖的で、富士がその障壁を利用して不当に高い国内価格を維持し、本国市場を「利益の聖域」にしている——というのがコダックの主張だった。

これに対し富士は真っ向から反論する。日本と米国のカラーフィルム価格は卸・小売いずれのレベルでもほぼ同じであり、コダックは数字をもてあそんでいるにすぎない、と。問題は流通構造であって市場の閉鎖性ではない、という立場である。

決着は1998年についた。WTO(世界貿易機関)の小委員会は、米国側の主張を退けた。事実上、富士フイルム側の言い分が認められた格好である。価格と五輪で挑んだ挑戦者は、通商の法廷でも王者を退けたのだ。

誰もがデジタルを知っていた

ここで、多くの人が抱く誤解を正しておきたい。「コダックはデジタル化に乗り遅れて滅んだ」という通説である。

事実は、むしろ逆だ。世界初のデジタルカメラを1975年に作ったのは、ほかならぬコダックの技術者スティーブン・サッソンだった。さらに1979年には、同社の幹部が「2010年までにカメラ市場はデジタルへ移行する」という趣旨の予測を社内文書にまとめていたとされる。

つまりコダックは、自らの未来をかなり正確に予言していた。にもかかわらず、その予言から目を背けた。なぜか。答えは単純である。フィルムがあまりにも儲かったからだ。

銀塩フィルムは、カメラ本体・現像・印画紙・薬品まで含めた巨大な利益の体系を持つ。一枚撮るたびにコダックにお金が落ちる仕組みだ。一方、デジタルカメラはメモリーカードに何度でも撮れてしまい、フィルムも現像も要らない。自社の屋台骨を自分の手で壊す——デジタルとは、コダックにとってそういう技術だった。

コダックのビジネスモデルとイノベーターのジレンマ
コダックのビジネスモデルとイノベーターのジレンマ

これは経営学でいう「イノベーターのジレンマ」の典型である。優良企業は、既存の顧客と利益を守ろうとするあまり、自分の足元を崩しかねない新技術への本気の投資をためらう。コダックはデジタルを発明しながら、それを本気で売る覚悟を最後まで持てなかった。

明暗が分かれた瞬間

2000年代に入り、デジタルの津波が現実になると、両社の対応は対照的なものになった。

誤解してはならないのは、富士もまた「フィルム屋」であり、コダックと同じ津波をかぶった当事者だったという点である。しかも富士は、写真フィルム市場ではコダックに水をあけられた「万年2番手」だった。「写ルンです」で気を吐いても、世界市場でのシェアは11%程度にとどまっていたという。

運命を分けたのは、その後の決断のスピードと覚悟だった。2004年、社長・古森重隆は、本業である写真フィルムへの依存から脱却し、事業を大幅に組み替える大胆な構造改革に踏み切る。経営ビジョン「VISION75」を掲げ、フィルムで培った技術を医薬品・化粧品・高機能材料といったまったく別の分野へ転用する道を選んだのである。富士は、長年親しまれてきた写真フィルムの箱をかたどったロゴまで捨て、自らのアイデンティティを脱ぎ替えた。この「事業転換の本質」については、次章であらためて詳しく掘り下げる。

対するコダックは、フィルム事業への依存から最後まで抜け出せなかった。そして2012年1月19日、米連邦破産法第11条(日本の民事再生法に相当)の適用を申請する。約130年の歴史を誇った黄色い巨人の、事実上の破綻だった。

「コダック・モーメント」という言葉は、かつて保存に値する幸福な一瞬を意味した。それが今では、変化に立ちすくんだ経営者への戒めの代名詞になっている。挑戦者が王者を看取る——半世紀の競争は、そんな逆説的な結末を迎えた。

なぜ「2番手」が生き残ったのか——独自の視点

ここからは、筆者の見立てである。

富士フイルムが生き残れた理由を、単なる「多角化の成功」だけで説明するのは物足りない。より本質的なのは、富士がずっと「2番手」だったという事実そのものだ。

王者コダックは、守るべき市場と利益が大きすぎた。だからこそ動けなかった。一方の富士は、もともと挑戦者であり、追い上げる側の緊張感を半世紀にわたって体に染み込ませてきた。「コダックに追いつき追い越せ」を合言葉に、価格で、五輪で、使い切りカメラで、そして法廷で——あらゆる土俵で格上に挑み続けた経験が、いざ本業が崩れたときの「捨てる覚悟」を準備していた。皮肉なことに、頂点に立てなかったことが、富士を救ったのである。

もう一つ見落とせないのが、富士が単なる「フィルムを売る会社」ではなく、フィルムを「自分で作る会社」だった点だ。第1章で見たとおり、富士は創業時から原材料と製造技術を自前で抱える垂直統合の企業である。その技術の引き出しの多さが、フィルム以外の事業へ飛び移る足場になった。

そしてもう一点。コダックと富士を最後に分けたのは、「色」への向き合い方だったと筆者は考える。両社のフィルムは発色の個性が異なり、「コダックの色」「富士の色」として写真愛好家に語り継がれてきた。富士は、その「色を作り出す技術」を企業の中核能力として捉え直した。デジタル時代に入っても、富士は色を諦めなかった。それが後年、フィルムシミュレーションという独自の武器となり、Xマウントという物語へとつながっていく。

垂直統合と技術の横展開を示すツリー図
垂直統合と技術の横展開を示すツリー図

黄色い巨人との半世紀の戦いは、富士フイルムに「捨てる勇気」と「色への執念」という二つの遺産を残した。次章では、その富士がどのようにして写真フイルム以外の柱を打ち立て、生き残りを果たしたのか——その事業転換の中身に分け入る。

出典・参考

📝編集注:本章は富士フイルムとコダックの競争史に焦点を当てた。富士がフィルム事業の崩壊をどう乗り越え、ヘルスケアや高機能材料へ事業を広げたのかは、次章「03|多角化という生存戦略」で詳述する。

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