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01|創業と銀塩への情熱——国産フィルムに懸けた使命

FUJIFILM
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Xマウントの軌跡——富士フイルムはなぜ「色」を選んだのか (01)

🎞️1934年、神奈川の山あいで、ひとつの会社が産声を上げた。掲げた夢は「写真フィルムの国産化」。当時の日本にとって、それは無謀にも見える挑戦だった。富士フイルムの——そしてXマウントの——物語は、この銀塩への執念から始まる。

ミラーレスカメラの背面で「PROVIA」や「Velvia」を選ぶとき、私たちは知らぬ間に一本のフィルムの名を呼んでいる。富士フイルムというメーカーが「色」にこだわり続ける理由をたどっていくと、行き着く先はいつも同じ場所だ。それは、写真がまだ銀の粒子でできていた時代である。

この連載の最初の一歩として、まずは会社の出発点に立ち返りたい。なぜ富士フイルムは生まれたのか。なぜ「フィルムを自分たちの手で作る」ことにこだわったのか。その問いの答えが、のちのXマウントの設計思想にまで地下水脈のようにつながっている。

「写真の国産化」という、無謀にも見えた夢

話は会社の創立より15年ほどさかのぼる。1919年(大正8年)、日本の写真産業にとって忘れがたい年だ。この年、写真用乾板の工業化に先べんをつけた東洋乾板が生まれ、同じ年にセルロイドメーカーの大日本セルロイド(現在のダイセル)が創立された。さらにオリエンタル写真工業もこの年に産声を上げている。

ところが、当時の日本に「写真フィルムを一から作る」技術は存在しなかった。映画の撮影に使うフィルムの原板は、そのすべてをアメリカやドイツからの輸入に頼っていた。その額は当時の金額で年に800万円から1000万円に達したという。国産化は単なる商機ではなく、外貨流出を防ぐという社会的な要請でもあった。

富士フイルム自身の社史にも、こう記されている。フィルムの国産化は「セルロイド生産業者の責務」である、と。技術と原料の両面から見て、それを成し遂げられるのは自分たちしかいない——その使命感が、すべての出発点だった。

セルロイド屋は、なぜフィルムを選んだのか

ここで主役になるのが、大日本セルロイドである。同社を率いた森田茂吉社長は、おもちゃや日用品に使われていたセルロイドの「次の市場」を探していた。そして目をつけたのが、写真用・映画用のフィルムだった。

なぜセルロイドとフィルムが結びつくのか。理由は単純で、当時のフィルムの土台——フィルムベースと呼ばれる透明な薄い膜——が、セルロイドそのものだったからだ。正確には硝酸繊維素(ニトロセルロース)を主原料とする素材で、燃えやすく扱いの難しい、いわゆる「ナイトレートフィルム」である。セルロイドを薄く均一に延ばす技術は、まさにセルロイド屋の領分だった。

森田は当初、世界最大のフィルムメーカーであるアメリカのコダックとの提携も検討したという。しかしコダックはこれを拒否する。後ろ盾を断たれた大日本セルロイドは、1926年(大正15年)に「フィルム事業自立計画」を決定し、自力での開発に踏み切った。外国に頼れないなら、自分たちで作る。この「内製でやり抜く」という選択は、のちに富士がセンサーやレンズを自社で抱え込む姿勢にまで響いてくる、いわば企業のDNAの最初の刻印だった。

もう一つの難所が、フィルムに塗る感光剤——写真乳剤の技術である。これについては、乾板づくりで先行していた東洋乾板に出資し、研究者を送り込んで開発を加速させた。

フィルムベースとの格闘——ドラムに賭けた技師たち

ここで、写真フィルムの仕組みを簡単に整理しておきたい。

フィルムや印画紙のような「写真感光材料」は、土台(フィルムベースや紙)の上に、光に反応する薬剤を塗って作られる。その薬剤の主役がハロゲン化銀だ。ゼラチンを溶かした水に臭化カリウムなどのハロゲン塩類を加え、暗室で硝酸銀の水溶液を混ぜると、光に反応する微細なハロゲン化銀の粒ができる。乳のように濁って見えることから、これを「写真乳剤」と呼ぶ。銀の化合物を使うので「銀塩写真」という言葉も生まれた。フィルムシミュレーションの「銀塩」の正体は、このハロゲン化銀である。

写真フィルムの断面図(ベースと乳剤の階層構造)
写真フィルムの断面図(ベースと乳剤の階層構造)

大日本セルロイドが最初に挑んだのは、土台となるフィルムベースづくりだった。おもちゃ用のセルロイドとは違い、フィルムベースには平面性、透明性、しなやかさ、耐久性、そして乳剤との相性まで求められる。一枚の均質な膜を連続して流し延ばすのは、想像をはるかに超える難事だった。

フィルムベースの研究は1920年(大正9年)、技師長の樋口修平と技師の青木英吉によって堺工場で始まった。翌年に青木が工場長へ移ると、研究は技師の作間政介(のちの富士写真フイルム専務)が引き継ぐ。作間はドラム式の流延法に挑んだ。天井までの高さがわずか3.3メートルしかない実験室に、可能な限り大きな装置を据えようと苦心し、直径2.42メートルの円筒形ドラムを組み上げる。表面に磨き上げた真ちゅう帯を巻き、メッキを施し、連続して膜を流せる製帯機を完成させた。

ドラム式流延法(製帯機)のメカニズム図
ドラム式流延法(製帯機)のメカニズム図

原料の配合比率、溶剤の組成、膜のはく離条件——一つひとつを根気強く詰めていく、地味で執念深い作業だった。

水と空気を選ぶ——足柄という土地

工場の建設地選びにも、ものづくりへの思想がにじんでいる。

大日本セルロイドが新工場の地に選んだのは、箱根山麓の神奈川県南足柄村(現在の南足柄市)だった。決め手は「豊富な良質の水」と「きれいな空気」である。写真フィルムの製造では、何十種類もの薬品を水に分散させ、複数の層を一度に塗り重ねる。このとき、わずかな不純物が品質を左右する。だからこそ、清らかな水が湧く土地が必要だった。

この選択は単なる昔話ではない。足柄の地は今も富士フイルムの創業工場として機能し、写真フィルムやインスタントカメラ「チェキ」のフィルムを生み続けている。創業以来守られてきた清澄な水と、複数の層を同時に塗る「同時多層塗布」の技術は、現在の同社の屋台骨でもある。

同時多層塗布のイメージ図
同時多層塗布のイメージ図

土地と水を選ぶという最初の判断が、90年を超えて生きている。

春木榮、シベリア鉄道で西へ

土台と乳剤の研究が進む一方で、量産には欧米製の機械と、確かな技術指導が欠かせなかった。当時の日本の機械工業の水準では、フィルムベースの製帯機などを国内で揃えることはできなかったのである。

1932年(昭和7年)12月、春木榮が機械の買い付けと欧米のフィルム事業の実情調査のため、シベリア鉄道を経由して海を渡った。彼の旅にはもう二つの密命があった。

一つは、ベルギーの有力写真工業会社ゲバルト社との提携交渉である。ゲバルト側は原材料や半製品の供給、技術提携、そして出資まで申し入れてきた。一貫製造を志していたとはいえ、技術面に不安を残す大日本セルロイドにとって、この申し出は魅力的だった。春木は数次にわたり交渉したが、条件が折り合わず、本社の指示で打ち切る。結果として富士は、ここでも「自力」を選ぶことになった。

もう一つの目的が、感光色素の合成と写真乳剤製造を指導してもらう外国人技術者の招へいだった。この交渉は実を結び、ドイツ人技師E.G.マウエルホフ博士(Dr. E.G. Mauerhoff)との契約が成立する。この一人の技師の存在が、のちに会社を救うことになる。

1934年1月20日——富士写真フイルム誕生

足柄工場は1933年(昭和8年)に竣工した。そして操業開始にあたり、大日本セルロイドは写真フィルム事業を独立した会社として切り出すことを決める。

背中を押したのは国の政策だった。1933年、映画用フィルムの国産化が国の助成事業として採択される。大日本セルロイドの申請を受け、商工省は映画用フィルムの製造奨励金として総額120万円の交付を決定した。これは新会社の資本金300万円の、実に4割に当たる巨額である。

かくして1934年(昭和9年)1月20日、資本金300万円をもって富士写真フイルム株式会社が創立された。母体は大日本セルロイドの写真フィルム部。翌2月には足柄工場が操業を開始し、写真フィルム・印画紙・乾板といった写真感光材料の製造が始まる。同じ年には東洋乾板も統合し、フィルムベースから乳剤、加工までを一貫して手がける総合写真感光材料メーカーが立ち上がった。

ここで興味深いのは、富士の出発点が「写真屋」ではなく「映画用フィルム屋」だった、という点である。小西六(のちのコニカ)やオリエンタルといった先行各社は、まず写真用の感光材料から始め、そこから映画へと広げていった。ところが富士は逆だった。準備段階から国の研究奨励金や工業助成金を受け、その交付対象は映画用フィルムに限られていた。つまり富士は、設立当初からプロ向けの映画用製品を作ることを半ば義務づけられた、やや「いびつ」な生まれ方をした会社なのだ。

この出自は軽く見ないほうがいい。映画・映像のプロフェッショナル市場と最初から向き合わされたことは、のちに放送用・映画用レンズFUJINONの強さや、動画機としてのXマウントの素地に、遠く静かにつながっていく。

社名の「富士」は、富士山に由来するとされる。東海道から望む富士山を社名に取り入れたいという思いと、国産化への決意を重ねたという。なお「フイルム」を小さな「ィ」ではなく大きな「イ」で表記するのは、創業以来変わらない富士フイルムの流儀である。ちなみに、社名候補に「桜(さくら)」があったが、すでに同業他社が用いていたため富士にした、という逸話も巷間よく語られる。ただしこれは社史で明確に確認できる話ではないため、ここでは「そう語られている」とだけ書き留めておく。

船出は、嵐の中だった

めでたい船出——とは、とてもいかなかった。

1934年4月、足柄工場は映画用ポジフィルム、乾板、印画紙を初めて出荷する。だが、いずれも品質が安定せず、販売は難航した。輸入品に慣れた市場の目は厳しかった。

そこへ、外からの圧力が重なる。新会社が動き出した2月1日、アメリカのイーストマン・コダックとドイツのアグファが、卸価格の大幅な値下げに踏み切ったのである。それまで円安や関税引き上げを理由にたびたび値上げをしてきた両社の、突然の方針転換だった。これは商売上の対抗策であると同時に、日本の「国策」への敏感な反応とも読める動きだった。生まれたばかりの富士に対する、巨人たちの牽制である。

さらに痛烈だったのは、内側からの声だった。2月4日、大日本活動写真協会が一つの声明を発表する。富士が後年「爆弾声明」と呼んだそれは、要するにこう告げていた。映画はフィルムの耐久力と価格の安さが欠かせない、そして——「國産品はまだ使用期に非ず」。国産フィルムなどまだ使える段階にない、という宣告である。作り手であるはずの映画業界自身が、国産品にそっぽを向いたのだ。

1934年当時の市場環境(四面楚歌)の相関図

「品質がすべてを決定する」——二年間の苦闘

創立から二年間、富士は満足のいく製品をなかなか生み出せなかった。一時は会社の存続すら危ぶまれる瀬戸際に立たされる。

この苦境を、社員たちは二つの教訓に結晶させた。「品質がすべてを決定する」、そして「全社員が一つになって事に当たれば困難は克服できる」。のちに富士フイルムの体質を語るうえで欠かせない「品質第一主義」は、この絶体絶命の二年間で鍛えられたものだ。

転機は、招いておいたドイツ人技師の手で訪れる。マウエルホフ博士の指導のもと、写真乳剤の生産方式が確立された。フィルムベースの耐久力不足も、製造条件の見直しと、原料である綿のリンター(繊維くず)の品質改善によって解決へ向かう。そして1936年(昭和11年)初頭、新しい乳剤と新しいフィルムベースによる映画用ポジフィルムがついに完成する。

勢いはここから生まれた。同年4月には、富士として初の映画用ネガフィルム「富士陰画用フィルム」を発売。輸入頼みだった映画用ネガの国産化が、ポジともども達成された瞬間である。翌1937年にはネガのパンクロ化(可視光の全域に感じるようにする技術)を実現して映画各社の注目を集め、同年には録音用フィルムも世に出した。医療の世界でも、1936年にX線フィルムの販売を始めている。そして1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発し、写真感光材料の輸入が大きく制限されると、外国メーカーが退いた市場の間隙を突くかたちで、富士は満州(中国東北部)や中国大陸へと販路を広げ、海外市場の開拓にも乗り出していった。国産化という最初の夢は、こうして現実のものになっていく。

銀塩の執念は、いまも続いている

こうして創業期をたどると、のちの富士フイルムを読み解くいくつもの鍵が、すでにこの時期に出そろっていることに気づく。

第一に、徹底した「内製・一貫生産」の思想である。コダックの提携拒否を跳ね返し、ゲバルトの申し出も断り、フィルムベースから乳剤、加工までを自前で抱え込んだ。この自力主義は、のちに独自のセンサーやレンズを社内に持つ姿勢へとまっすぐ伸びていく。

第二に、「映像のプロと向き合う」という宿命だ。国策のもと映画用フィルムから出発したことが、放送・映画用レンズや動画への強さの遠い源流になっている。

そして第三に、「色」への執念である。ハロゲン化銀をどう設計し、どう塗り重ねれば、人の記憶に残る色が出るのか。その問いと格闘してきた歳月こそが、デジタルになっても色を諦めない——フィルムシミュレーションという思想の土壌になった。

富士フイルムは、写真を売る会社として生まれたのではない。写真を成り立たせる素材そのものを、自らの手で生み出す会社として生まれた。この出自を押さえておくと、次章以降で語る企業の歩みも、Xマウントの設計思想も、ずっと見通しがよくなるはずだ。

次回は、その富士が宿命的に対峙し続けた相手——世界最大のフィルムメーカー、コダックとの長い因縁を取り上げる。


出典・参考

📝事実関係は富士フイルムの公式社史および一次資料に基づいて記述した。創業期の人物の役職など、資料によって記述が分かれる箇所については、断定を避けた。本稿の記述に誤りや補足があれば、随時更新する。

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