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03|多角化という生存戦略——ヘルスケア・高機能材料・化粧品への道

FUJIFILM
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🧪写真フィルムの巨大市場が消えていく——その現実を前に、富士フイルムは「フィルム中心の会社であり続ける」ことをやめた。だが、捨てたのはフィルム依存の事業構造であって、フィルムで培った技術ではない。化粧品の棚に、液晶テレビの内部に、抗ウイルス薬の錠剤に、いまも富士の「写真の技術」は生きている。本章は、一社の化学メーカーがどうやって自らを作り替えたのかという物語である。

前章で見たとおり、富士フイルムとコダックは同じ「フィルム屋」でありながら、明暗を分けた。その分岐点にあったのが、本業を捨てる覚悟と、捨てた先で何を育てるかという構想である。

本章では、その「育てる」側の物語を追う。富士フイルムは、写真フィルムという主力を失いながら、なぜ会社全体を作り替え、長期的には再び成長軌道に乗せられたのか。鍵は「多角化」という言葉の、よくある誤解を解くところにある。多角化とは、儲かりそうな事業に手当たり次第に手を広げることではない。富士のそれは、自社の技術を一つひとつ棚卸しし、その延長線上に新事業を見つけ出すという、きわめて論理的な作業だった。

「第二の創業」——危機の正体

まず、富士が立たされた崖の高さを正確に見ておきたい。

2000年前後、デジタルカメラの普及によって、写真フィルムの需要は坂を転げ落ちるように縮小していった。最盛期と比べ、カラーフィルムの世界総需要はやがて10分の1規模にまで縮むことになる。富士にとって写真フィルムは、利益率の高い屋台骨だった。その柱が、足元から崩れ始めたのである。

カラーフィルムの世界総需要の推移イメージ
カラーフィルムの世界総需要の推移イメージ

数字にも表れている。2002年3月期、富士フイルムの営業利益率は7%程度まで低下した。デジタルカメラ市場の競争激化と、富士ゼロックスを連結子会社化したことなどが重なった結果である。

社内では、誰もが変革の必要を感じていた。2000年に社長へ就任し、2003年にCEOとして実質的な最終権限を握った古森重隆は、のちにこう振り返っている——全社員が、変わらなければならないと理解していた、と。富士はこの転換を「第二の創業」と呼ぶ。それは比喩ではなく、事業の中身を文字どおり作り替える挑戦だった。

VISION75——羅針盤を掲げる

2004年2月、富士フイルムは中期経営計画「VISION75」を発表する。創立75周年にあたる2009年度までを見据えた計画で、掲げたビジョンは明快だった——「富士フイルムを没落より救い出し、2〜3兆円の売上高を持つリーディングカンパニーとして存続させる」。

VISION75は、三つの基本方針から成っていた。

  1. 経営全般にわたる徹底的な構造改革——縮小する写真フィルム事業を、それでも安定的に利益を出せる規模へと縮め直す。
  2. 新たな成長戦略の構築——フィルムに代わる新しい事業の柱を立てる。
  3. 連結経営の強化——グループ全体で稼ぐ体制をつくる。

この方針のもと、富士は痛みを伴う改革に踏み切る。2006年には、写真を中心とするイメージング事業で、総額約1,650億円もの一時費用を計上し、約5,000人規模の人員削減を断行した。古森の代名詞となった「4特廃止」——長年フィルム流通を支えてきた販売特約店制度の抜本的な見直し——も、この時期の構造改革の象徴である。同年、富士は持株会社制へ移行し、富士フイルムホールディングスが誕生した。

守りを固める一方で、富士は攻めの一手を打つ。それが、技術の「棚卸し」だった。

棚卸しの思想——フィルムは「化学と薄膜の塊」

富士の多角化を理解する鍵は、「写真フィルムとは何か」という問いにある。

一見すると、フィルムはただの感光する帯にすぎない。だがその正体は、高度な化学技術の結晶である。写真フィルムの発色層は約20マイクロメートルという薄さで、その中に無数の微粒子を均一に並べ、光と色を正確に記録する。これを実現するために、富士は創業以来、いくつもの基盤技術を磨き上げてきた。

  • コラーゲン技術——写真フィルムの主原料は、実はコラーゲンである。フィルム原料の約半分を占め、しかも食用よりはるかに高純度で、経年劣化に耐えるものが求められる。富士は不純物を極限まで削ぎ落とし、長期間安定させるコラーゲン技術を蓄積してきた。
  • ナノテクノロジー——薄膜の中に有用成分を微細化して均一に配置する、微粒子コントロールの技術。
  • 抗酸化技術——古い写真の色あせは、活性酸素が一因である。色を長期間保つために、富士は活性酸素を抑える抗酸化技術を培ってきた。
  • 分子配向・光制御技術——光をまっすぐ通す、あるいは狙いどおりに曲げる、薄膜の光学設計の技術。
技術の「棚卸し」と多角化マップ
技術の「棚卸し」と多角化マップ

富士は、これら手持ちの技術を一つひとつ書き出し、「この技術は、ほかのどんな市場で役に立つか」を問い直した。多角化の各事業は、その問いへの答えとして生まれている。寄せ集めではなく、一本の技術の論理で貫かれているのだ。

化粧品——「アスタリフト」という驚き

技術の棚卸しが生んだ、もっとも象徴的な事業が化粧品である。

2006年秋、富士フイルムは化粧品市場へ参入し、2007年にエイジングケアブランド「アスタリフト」を発売した。ブランド名は、主要成分である抗酸化物質アスタキサンチンに由来する。2008年に放映された、松田聖子と中島みゆきを起用したテレビCMを覚えている人も多いだろう。「なぜ、富士フイルムが化粧品を?」——多くの視聴者が抱いたその疑問こそ、富士の戦略を映す鏡だった。

答えは、先に挙げた技術の棚卸しにある。写真フィルムの発色層と人の肌の角層は、いずれも約20マイクロメートル前後という薄さで、写真フィルムの主原料にはコラーゲン(ゼラチン)が使われている。フィルムでコラーゲンの劣化を防ぐ技術は、そのまま肌のエイジングケアに通じる。さらに、有用成分を微細化して肌の奥へ届けるナノテクノロジー、成分の酸化を防ぐ抗酸化技術が組み合わさった。

写真フィルムの断面と肌の角層の対比イメージ
写真フィルムの断面と肌の角層の対比イメージ

アスタリフトは、通信販売を軸に始まり、店頭販売も広げながら成長した。売れ行きは予想を上回り、発売4年目にあたる2010年度には化粧品事業の売上高が100億円を突破した。化粧品は資生堂や花王といった巨人がひしめく成熟市場である。そこへ異業種から乗り込み、短期間で存在感を示したことは、「富士フイルムだからこそできた」という説得力を社の内外に植えつけた。「Why FUJIFILM?」という問いは、いつしか「Because FUJIFILM」という確信へと変わっていったのである。

高機能材料——液晶を支える縁の下の力持ち

消費者の目に触れにくいが、収益面でより大きな柱となったのが高機能材料、とりわけ液晶ディスプレイ用フィルムである。

液晶パネルに不可欠な部材に「偏光板」がある。その偏光板を保護するのが、富士の「フジタック(FUJITAC)」だ。透明性が高く、光学的なゆがみが少ないこのフィルムは、1980年代から電卓などの液晶に使われ、やがて液晶テレビ・パソコン・スマートフォンの普及とともに需要が爆発した。フジタックの土台にあるのは、写真フィルムで磨いた精密塗布技術である。

富士はここに集中投資した。2005年には富士フイルム九州を設立し、TACフィルムの生産能力を大きく増強。世界市場では長らく富士フイルムとコニカミノルタの2社が強い地位を占め、富士は世界トップ級のシェアを握った。

もっとも、この事業も順風満帆だったわけではない。台湾・韓国メーカーの量産が始まると寡占は崩れ、アクリルやPETといった代替素材の台頭も進んだ。近年は、かつての圧倒的なシェアからは後退したとされる。技術的な優位は永続しない——フジタックの歩みは、その厳しい現実も同時に物語っている。富士は数量を追うより、位相差フィルムなど高付加価値の領域へ軸足を移すことで、この分野での存在意義を保とうとしている。

医薬・ヘルスケア——「診断」から「治療」へ

富士が長期の柱と位置づけたのが、ヘルスケア事業である。

富士フイルムと医療の縁は古い。1936年に発売したレントゲン(X線)フィルムが、その起点である。以来、富士は画像診断の分野で技術を蓄えてきた。だが、その事業は「診断」に偏っていた。富士はこれを「治療」、すなわち医薬品の領域へと広げようとする。

決定打が、2008年2月の富山化学工業の買収だった。富山化学が約300億円の第三者割当増資を行ったうえで、富士フイルムが株式公開買い付け(TOB)を実施し、最終的に富士が66%、大正製薬が34%を保有する形で子会社化した。古森は、技術的シナジーの大きさこそが富山化学をパートナーに選んだ最大の理由だと語っている。富士は、画像診断技術や乳化分散技術、フィルムで培ったFTD技術を創薬に生かし、予防・診断・治療を網羅する総合ヘルスケアカンパニーを標榜した。

この買収が、思わぬ形で世界に知られることになる。富山化学が持っていた抗インフルエンザ薬「T-705」が、のちの抗ウイルス薬「アビガン(一般名・ファビピラビル)」である。2014年3月に新型・再興型インフルエンザを適応症として国内で承認されたこの薬は、2020年の新型コロナウイルス感染症の流行時に治療候補として一躍脚光を浴びた。RNAウイルスの複製を抑えるという作用機序から、2024年6月には、マダニが媒介する重症熱性血小板減少症候群(SFTS)ウイルス感染症への適応追加も承認された。

ただし、創薬は華やかな話ばかりではない。事実をありのままに記せば、富士の医薬パイプラインには挫折も多い。アルツハイマー型認知症治療薬として開発していた「T-817MA」は、米国の臨床試験で主要評価項目を達成できなかった。がんペプチドワクチン「ITK-1」も、国内の試験で延命効果を統計的に示せなかった。新薬開発の道は険しく、富士もまた幾多の失敗を重ねている。それでも同社は、再生医療やバイオ医薬品の受託製造(バイオCDMO)といった領域へ投資を続け、ヘルスケアを成長の本丸に据え続けている。

ドキュメント——富士ゼロックスという両輪

多角化を語るうえで、もう一つの大きな両輪が事務機器事業である。

富士ゼロックスは1962年、富士写真フイルムと英国ランク・ゼロックス社が折半出資で設立した合弁会社だ。複写機の技術とブランドを持つゼロックス側に、富士の開発・生産技術を融合させ、日本を含むアジア・パシフィックと欧米で販売地域を分担する——日本企業と海外企業による合弁の成功例とされてきた。

2001年、富士はゼロックスが持つ持ち分の一部を買い取り、出資比率を75%へ引き上げて連結子会社とした。これにより富士の連結売上は大きく底上げされたが、前述のとおり、それは利益率低下の一因にもなった。

そして2019年11月、富士フイルムは米ゼロックスとの合弁を解消する。ゼロックスが持つ25%の富士ゼロックス株を約2,500億円(約23億ドル)で買い取り、富士ゼロックスを完全子会社化する一方、難航していたゼロックス本体の買収は断念した。物言う株主の反発で一度合意した契約が破棄されるなど、交渉は紛糾した末の決着だった。2021年4月、富士ゼロックスは社名を「富士フイルムビジネスイノベーション」へと改め、ペーパーレス時代に向けた再定義を進めている。

数字で見る変貌

こうした一連の組み替えの結果を、数字で確かめておこう。

富士フイルムの連結売上高は、2000年から2007年のあいだでほぼ倍増し、2007年度には約2兆8,500億円に達した。ただし、この倍増の最大の要因は、2001年に富士ゼロックスを連結子会社化し、約1兆円規模の事務機器事業を取り込んだことである。化粧品や医薬といった多角化事業の本格的な収益貢献は、これ以降に徐々に表れてくる。とはいえ、注目すべきは、その内訳である。カラーフィルム、デジタルカメラ、フォトフィニッシングなどを含むイメージングソリューション部門が連結売上に占める割合は、2007年度の時点でおよそ19%にまで下がっていた。かつての主力が、すでに脇役へと移っていたのだ。さらに近年では、写真フィルム単体の売上比率は1%未満の水準にまで縮んでいる。

事業構成比の変化イメージ
事業構成比の変化イメージ

つまり富士は、主力だったカラーフィルム市場がピーク時の10分の1以下に縮むあいだに、会社全体としては事業の中身を入れ替えながら大きくなった。これが、多角化という生存戦略の到達点である。

独自の視点——「捨てる」と「活かす」の両立

ここからは筆者の見立てである。

富士フイルムの多角化を、単なる「異業種への進出」と捉えると、その本質を見誤る。富士がやったのは、進出ではなく「翻訳」だった。写真フィルムという一つの製品を、コラーゲン・ナノ・抗酸化・薄膜・光制御といった要素技術へと一度分解し、それぞれを別の市場の言葉に翻訳し直したのである。化粧品も、液晶フィルムも、医薬品も、出発点は同じ「写真の技術」だった。

ここに、富士の垂直統合の配当がある。第1章で見たとおり、富士は創業時から原材料と製造技術を自前で抱える会社だった。技術を外から買うのではなく、自分の手で作ってきたからこそ、いざというときに分解し、組み替えるだけの引き出しを持っていた。フィルムを収益源として抱え込み続けたコダックに比べ、富士は要素技術を別市場へ移す余地を大きく持っていた。

そして強調したいのは、富士が「捨てる」と「活かす」を同時にやってのけた点だ。写真フィルム事業という看板は思い切って縮小し、ロゴからフィルムの箱のモチーフすら消した。だが、フィルムで培った技術は一つも捨てなかった。捨てるべきものと残すべきものを冷静に切り分ける——この判断力こそが、富士を救った真の能力だったと筆者は考える。

カメラだけは、残った

もっとも、ここで一つの問いが残る。

これだけ大胆に事業を組み替えたのなら、カメラ事業など、真っ先に手放してもよかったはずだ。当時のデジタルカメラ市場は競争が激しく、価格下落も速かった。事実、多くの家電メーカーがカメラから撤退していった。それでも富士は、写真を撮る道具を作り続けることを選んだ。

なぜ、富士はカメラを残したのか。そこには、収益計算だけでは説明のつかない「写真文化への責任」とでも呼ぶべき意志がある。そしてその意志こそが、のちにXマウントという物語を生む土壌になっていく。次章では、その問い——なぜ富士はカメラを作り続けるのか——に正面から分け入る。

出典・参考

📝編集注:本章は富士フイルムの事業転換そのものに焦点を当てた。これだけ大胆に事業を組み替えながら、なぜカメラ事業だけは手放さなかったのか——その理念と背景は、次章「04|なぜ富士はカメラを作り続けるのか」で掘り下げる。

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