
🔭オリンピックの中継カメラにも、ハリウッドの撮影現場にも、彗星を追う天文台にも、富士フイルムのレンズは載っている。多くの人は「富士フイルム=フィルムとチェキの会社」と思っているが、その正体はもう一つある。世界が認める総合レンズメーカー「FUJINON(フジノン)」だ。本章は、XFレンズの描写を支える「見えない背骨」——80年以上にわたるレンズ屋・富士フイルムの正体に分け入る。
第Ⅰ部では、富士フイルムを「フィルムに始まり、写真文化を背負って生きてきた会社」として描いた。だが、この会社にはもう一つ、語られることの少ない顔がある。レンズメーカーとしての顔である。
Xシリーズの交換レンズには、判で押したように「FUJINON」「SUPER EBC」の刻印が並ぶ。これは単なるブランド名ではない。放送・映画・産業・医療・宇宙——あらゆる現場で光を操ってきた光学技術の系譜が、そのまま民生用カメラに注ぎ込まれていることの証だ。本章では、第Ⅱ部全体の見取り図として、富士フイルムがどのようにしてレンズ屋になり、どんな技術を磨き、それがどうXマウントへ流れ込んだのかを俯瞰する。放送用レンズと映画用レンズの詳細は、続く第6章・第7章でじっくり扱う。
1940年——「化学」と「光学」の二刀流という選択

フジノンの起点は、富士フイルム創業(1934年)からわずか数年後にさかのぼる。
富士フイルムは1938年、光学ガラスからレンズ・カメラまでの一貫製造を計画し、研究開発に着手する。そして1940年、12種類の光学ガラスの溶解に成功し、小田原工場内に光学ガラス溶融工場を建設した。これがFUJINONレンズのルーツである。
ここで立ち止まって考えたい。当時、写真感光材料を作るメーカーは数社あったが、そのうちレンズ・カメラまで自前で製造する会社は、世界を見渡してもコダックを除いてほぼ存在しなかった。
なぜか。フィルムを司るのは「化学」であり、レンズ・カメラを司るのは「光学・工学」だからだ。どちらか一方を極めるだけでも難業である。その双方を社内に抱えるのは、途方もない遠回りに見える。
それでも富士は、あえて二刀流を選んだ。富士フイルム自身の言葉を借りれば、感材分野と光学機器分野の両方を持つことは「単に異なる二つの分野を持つこと」ではなく、「“光”を“Photo”に変えるための、全てのプロセスを一貫して品質管理する」ことを意味した。光をつかまえるレンズ、その光を受け止めるフィルム、記録された情報を現像する印画紙と薬品——その全工程を自社で握る。1938年、富士フイルムはFUJINONを得て、名実ともに「Photoメーカー」になったのである。
この「川上から川下まで全部やる」という思想は、本連載で何度も顔を出すことになる。富士の「色」が説得力を持つのも、撮影から鑑賞までを一気通貫で押さえてきたからだ(第Ⅰ部・第4章参照)。レンズもまた、その思想の産物だった。
戦争と「富士写真光機」——双眼鏡から始まった光学の現場

もっとも、レンズ・カメラの一貫製造という夢は、すぐには花開かなかった。
太平洋戦争の勃発により、民生用カメラの製造は不可能になる。その一方で、軍用光学機器——照準器や双眼鏡——の需要が急増した。富士は増設に次ぐ増設で需要に応え、既存の光学機器メーカーを傘下に収め、1944年には富士写真光機株式会社を発足させる。当初これらは軍需に充てられたが、戦後、この会社こそが民生用光学機器の担い手として再出発することになる。
その象徴が双眼鏡だ。フジノン双眼鏡は1947年に第一号機を発売。揺れの激しい海上での監視や、彗星を追う天体観測といった過酷な現場で、プロが求める光学性能・信頼性・堅牢性を満たし、「見るプロ」たちの支持を集めてきた。富士フイルムの高性能レンズを積んだ大型双眼鏡は、百武彗星をはじめ15個もの彗星の発見に貢献し、天文台や人工衛星にも採用されている。手ブレや乗り物の振動を打ち消す防振技術(テクノスタビシリーズ)も、この双眼鏡づくりで磨かれた電子技術の結晶だ。
レンズ屋・富士フイルムの足腰は、カメラ用レンズではなく、まず双眼鏡という「のぞく道具」の現場で鍛えられた。この事実は意外と知られていない。
EBCの誕生——一眼レフ参入が生んだコーティング技術

富士がフォーカルプレーン式一眼レフ市場に参入したのは1970年。最初の製品「フジカST-701」のマウントはねじ込み式のM42で、レンズのコーティングはまだ単層だった。
転機は2年後に訪れる。1972年の「フジカST-801」とともに、マルチコーティングを施した「EBCフジノン」が登場したのだ。EBCとは Electron Beam Coating(電子ビームコーティング)の略で、薄い反射防止膜を何層も重ねることで、レンズ内部での余計な反射——フレアやゴーストの原因——を抑え込む技術である。
このEBCは、現在のXFレンズに刻まれた「SUPER EBC」の直接の祖先にあたる。半世紀前に確立した反射防止の思想が、名前を変えながら今も生き続けている。富士のレンズ哲学は「光をどれだけ素直にセンサーへ届けるか」に集約されると言ってよく、その出発点がここにある。
放送用レンズ——光学技術の「最高峰」が試される場所
フジノンの技術力がもっとも先鋭化するのが、放送用レンズの世界だ。ここは第6章で本格的に掘り下げるが、技術的な背景だけ先に押さえておきたい。
テレビ中継で使われる大口径ズームレンズは、数十枚ものガラスを重ねた巨大な光学系である。スポーツ中継では9.5mm〜525mmといった広大なズーム域や、果ては9.5〜627mm(エクステンダーで1254mm)に達する66倍ズームのような怪物まで存在する。これだけのレンズ枚数を重ねながら、画面の隅々まで解像し、色を破綻させないためには、極限の研磨精度とコーティング技術が要る。
ここで効いてくるのが、放送用レンズ向けに開発された「HT-EBC(High Transmittance Electron Beam Coating)」だ。可視光の広い波長域で透過率99.8%・反射率0.2%という高い性能を実現し、レンズの全面にコートできる。写真表現を左右する赤や青の光まで素直にセンサーへ届けられるため、レンズ枚数の多い設計ほど威力を発揮する。さらに、ガラスとは分散特性の異なる蛍石(CaF₂)や非球面レンズを大口径に投入し、色収差や球面収差を抑え込む。
4Kはもちろん、より難度の高い8Kレンズの開発・製造にまで、富士は最高峰の光学技術で応えてきた。放送用レンズは、フジノンが「世界で通用する光学屋」であることを毎日のように証明し続けている現場なのだ。
シネマレンズ——映画の現場へ降りてきた放送の遺伝子
放送用レンズで培った技術は、映画の世界にも流れ込んでいる。こちらは第7章で詳述するが、要点だけ先取りする。
富士は2009年に世界初の4K映画用ズームレンズを発売し、シネマレンズ市場に確かな足跡を残した。象徴的なのが2017年登場の「MKシリーズ」だ。スーパー35mm/APS-Cセンサー専用に設計され、シネマズームでありながら1kgを切る小型・軽量を実現。映画的な描写を、より身軽な機材で、より多くの作り手に開いた。放送で鍛えた解像性能とズーム設計のノウハウが、そのまま映像表現の現場へ降りてきた好例である。
重要なのは、これらが「別部署の他人事」ではないという点だ。放送・映画用レンズを設計する技術者たちが何より大切にしてきた「画質」への執念は、XシリーズのXFレンズ開発へとそのまま受け継がれている、と富士自身が明言している。
民生からプロまで——「総合レンズメーカー」の全体像

ここまで見てきた放送・映画に加え、富士のレンズ事業は驚くほど裾野が広い。
- 双眼鏡——天体観測・海上監視で鍛えた光学性能と防振技術。
- マシンビジョンレンズ——工場の検査・計測ラインを支える産業用レンズ。累計100万本以上を生産してきた。
- セキュリティ/監視用レンズ——放送用で培った高解像技術を投入し、光学1,600mm級の超望遠域まで網羅する(デジタルズーム併用時は3,200mm相当)。
- 医療用内視鏡——写真分野で培った画像処理技術と、極細径化を支える光学設計の結晶。
- プロジェクターレンズ・干渉計——空間演出から、レンズ自身の精度を測る計測機まで。
つまりフジノンは、民生用カメラレンズだけを作る会社ではない。「光を扱うあらゆる現場」に製品を供給する総合レンズメーカーであり、各分野で得た知見が互いに行き来している。XFレンズの描写を語るとき、この広大な裾野を抜きには語れない。
XFレンズへの継承——刻印に宿る技術の系譜

では、これらの技術は具体的にどうXマウントへ流れ込んでいるのか。XFレンズの仕様書を開くと、放送・産業用レンズと同じ言葉が並ぶ。
- HT-EBC——放送用レンズ生まれの多層膜コートが、XF/XCレンズ全種に採用されている。
- ナノGIコーティング——光の屈折率をなだらかに変化させて反射を抑える技術で、HT-EBCと組み合わせてフレア・ゴーストをさらに低減する。
- EDガラス/スーパーEDガラス——通常ガラスと分散の異なる素材で色にじみを抑える。これは放送用レンズの蛍石・特殊低分散ガラスと同じ発想だ。
- ガラスモールド非球面レンズ——高温蒸着に耐えるガラス製の非球面を採用することで、HT-EBCなどの高性能コートを載せられる。
キットレンズとして提供される「XF18-55mmF2.8-4 R LM OIS」が、キットとしては異例の開放F2.8と高解像を両立しているのは、こうした「プロ用で当たり前の技術」を惜しみなく投入できるからだ。逆に言えば、富士は安価なレンズにも妥協しにくい——それが総合レンズメーカーとしての矜持でもある。
なお、子会社だった株式会社フジノンは2004年にその社名となり、2010年に親会社の富士フイルムに吸収合併された。狙いは、フジノンの光学技術と富士フイルムの映像技術・生産技術・有機合成技術をさらに融合させ、光学デバイス事業を拡大することにあった。レンズ屋と化学屋が完全に一体化したことで、「川上から川下まで」の思想はいっそう純度を増したと言える。
独自の視点——「見えない資産」が効いてくる
ここからは筆者の見立てである。
富士フイルムのレンズを評価するうえで見落とされがちなのが、この「裾野の広さ」が効いてくる局面だ。多くのカメラメーカーは、写真用レンズの世界で技術を磨く。だが富士は、8K放送という解像度の極北や、彗星を追う天体光学、ミクロン単位を見るマシンビジョンといった、写真とは桁の違う要求にさらされ続けてきた。そこで鍛えた研磨・コーティング・収差補正の技術が、写真用レンズに「降りてくる」。これは一朝一夕には模倣できない蓄積だ。
もう一つ。富士の強みは、レンズ単体の性能というより、「レンズとセンサーと画づくりを同じ会社が握っている」一貫性にある。HT-EBCで素直に光を届け、X-Trans CMOSで受け止め、フィルムシミュレーションで仕上げる——この三位一体の設計思想は、レンズ屋と化学屋を両方抱える会社にしか描けない絵だ。「FUJINON」の刻印は、その一貫性の宣言でもある。
もちろん、これは富士が万能だという話ではない。超望遠の選択肢の薄さなど、ラインアップ上の弱点も存在する。それらは第Ⅸ部のカタログ編で正直に扱う。ここで確認しておきたいのは、Xマウントの描写が「写真用レンズだけを作ってきた会社」のものではない、という事実である。
次章へ——放送用レンズの覇者として
本章では、富士フイルムがレンズ屋になった経緯と、放送・映画・産業へ広がる技術の全体像、そしてそれがXFレンズへ継承される流れを俯瞰した。
だが、ここまでは見取り図にすぎない。続く第6章では、この物語の核心——放送用レンズの世界へ深く分け入る。ハイビジョン以降、他社製カメラのボディにすら「FUJINON」のレンズが載るのはなぜか。世界の中継現場を二分する富士とキヤノンの構図とは。レンズ屋・富士フイルムのもっとも輝かしい戦場を、次章で見ていこう。
出典・参考
- 富士フイルム X Stories「フジノンの歴史 エピソード1 -1938年 原点-」 https://www.fujifilm-x.com/ja-jp/stories/the-history-of-fujinon-episode1/
- 富士フイルム X Stories「フジノンの歴史 エピソード4」(EBCについて) https://www.fujifilm-x.com/ja-jp/stories/the-history-of-fujinon-episode4/
- 富士フイルムのあゆみ「光学ガラス、レンズ、光学機器への進出」 https://www.fujifilm.co.jp/corporate/aboutus/history/ayumi/dai1-10.html
- 富士フイルムホールディングス 90周年特設ページ(歴史) https://holdings.fujifilm.com/special/90th/ja/history/
- 富士フイルム「FUJINONの卓越した技術で、光学レンズの可能性を広げる」(光学デバイス事業概要) https://www.fujifilm.com/jp/ja/business/optical-devices/overview
- 富士フイルム「撮影シーンに合わせてレンズを選択しましょう!」(EDガラス・HT-EBC・ナノGI・非球面レンズの解説) https://fujifilm.jp/support/digitalcamera/knowledge/lens/index.html
- 富士フイルム「ポータブルレンズ:技術」(蛍石・非球面・エコガラス) https://www.fujifilm.com/jp/ja/business/cine-and-broadcast/portablelens/technology
- 富士フイルム「FUJINON 遠望多目的カメラ SXシリーズ」(SX1600の焦点距離) https://www.fujifilm.com/jp/ja/business/optical-devices/cctv/sx
- 富士フイルム「双眼鏡」(1947年第一号機・防振技術) https://www.fujifilm.com/jp/ja/consumer/binoculars
- 富士フイルム ブランドストーリー「星とFUJIFILM 15個の彗星を、発見したレンズ。」 https://brand.fujifilm.com/sekai-hitotsuzutsu/contents/star/
- 富士フイルム ニュースリリース「HDTVレンズ FUJINON XA55×9.5」 https://www.chem-t.com/fax/images/tmp_file1_1376966735.pdf
- PRONEWS「1kgを切るシネマレンズの実現に挑戦した FUJINON MKレンズ」(2009年 世界初4K映画用ズーム、MKシリーズ) https://jp.pronews.com/special/20171115110079717.html
- CAPA CAMERA WEB「名玉の宝庫フジノンレンズ、今に続くEBCコーティングの実力」(ST-701/ST-801とEBC) https://getnavi.jp/capa/report/293582/
- Machine Vision Direct「Fujinon | Machine Vision Lenses」(累計100万本以上の生産) https://machinevisiondirect.com/pages/fujinon
- THE MAP TIMES「【FUJIFILM】これからXシリーズの5つの魅力を語ります。」(FUJINONという遺産) https://news.mapcamera.com/maptimes/【fujifilm】これからxシリーズの5つの魅力を語ります。/
📝編集注:本章は第Ⅱ部「レンズメーカー富士フイルム——FUJINONの世界」の導入にあたる。放送用レンズの詳細は第6章「放送用レンズの覇者」、映画用レンズは第7章「映画産業のフジノン」で掘り下げる。

