Evernoteの現在地、更新するか、否か(1)
「すべてを記憶する」。この一文が、かつてのEvernoteのキャッチコピーでした。いま読むと大げさに聞こえるかもしれませんが、2008年から2010年代前半にかけて、この言葉は誇張ではなく、実際に多くの人の情報の扱い方を変えてしまいました。
Evernoteとは何か
Evernoteは、テキスト、画像、音声、PDF、Webページの切り抜きといった雑多な情報を、ひとつのクラウド上の場所に放り込んで、あとから検索で引き出せるようにするノートアプリです。ノートという単位で情報を保存し、ノートブックという単位でまとめ、タグで横串を通す。この三層構造が基本設計です。
重要なのは「あとから検索で引き出せる」という部分です。Evernoteは早い時期から、画像内の文字を認識する光学文字認識(OCR)を搭載していました。手書きのホワイトボードを撮影しても、名刺をスキャンしても、その中の文字列が検索対象になる。ファイル名やフォルダ構造を几帳面に整えなくても、記憶の断片さえあれば掘り出せる。この体験が当時としては新しかったのです。
創業 ― ステパン・パチコフの原体験
Evernoteの源流は、1950年にソビエト連邦(現在のアゼルバイジャン)で生まれ、のちに渡米した起業家ステパン・パチコフ(Stepan Pachikov)にさかのぼります。パチコフは手書き文字認識の分野で長く実績を重ねた技術者で、Apple Newtonの手書き認識エンジンの開発にも関わりました。後年のEvernote CEOであるクリス・オニールの記述によれば、パチコフがEvernoteの着想を得たのは2002年のことです。そこから約2年をかけてプロトタイプを作り上げ、2004年にWindows向けのベータ版を公開しました。EverNote Corporation(当時はNを大文字で表記)の設立も2004年、カリフォルニア州サニーベールでのことです。当時の主力製品は、手書き文字認識ソフトのritePenと、「無限に続く一巻の紙」というメタファーでノートを記録するEverNoteでした。
パチコフの発想の背景には、彼自身の経験があります。ソビエト連邦で育ち、文化や集合的な記憶が時代の変化のなかで失われていくのを目の当たりにした。人間の記憶はあまりに脆く、そして個人の記憶が消えれば、その人が見た世界も消えてしまう。コンピュータはその損失を食い止められるのではないか。この問題意識が、のちの「第二の脳」というコンセプトにつながっていきます。技術的な思いつきではなく、記憶の保存という主題が先にあった。ここがEvernoteという製品の出自を理解するうえで欠かせない点です。
フィル・リービンとクラウドへの転回
2007年、パチコフはフィル・リービン(Phil Libin)と出会います。リービンは1972年にレニングラード(現サンクトペテルブルク)で生まれ、8歳で渡米した起業家で、パチコフより22歳年下でした。パチコフは自分に経営の才が乏しいことを自覚しており、リービンにCEOの座を託します。のちにパチコフは「彼のロシア語のほうが私の英語よりうまかった」という趣旨の言い回しで、この人選を振り返っています。
リービン体制のEvernoteは、事業の重心をWindowsデスクトップからWeb、スマートフォン、そしてMacへと大きく移しました。その最初の成果が2008年のEvernote 3.0です。Web版のオープンベータは2008年6月24日に始まりました。
タイミングがよかった、というだけでは説明が足りません。2008年はiPhone 3GとApp Storeが登場した年です。手のひらの端末で撮った写真が、その場でクラウドに送られ、机の上のPCで検索できる。この体験が現実になったのがまさにこの時期であり、Evernoteはその波の先頭に立っていました。「クラウド × ノート」という組み合わせは、当時、明確に発明でした。
爆発的な成長
ユーザー数の伸び方は、当時のEvernote公式ブログの記録に残っています。100万人到達までに446日、200万人までに222日、300万人までに133日、400万人までに108日、そして500万人までは83日。2010年11月に500万人を突破した時点で、1日あたり平均12,000人以上が新規登録していた計算になります。2011年6月には1,000万人を突破し、このうち有料ユーザーは約42万5,000人と報じられました。2018年時点の登録ユーザー数は2億2,500万人、2022年の買収発表時には2億5,000万人以上とされています。
登録ユーザー数と実際に使っている人の数は別物です。2億2,500万という数字は「アカウントを作ったことのある人」の累計に近く、Evernoteが後年直面する課題、つまり無料ユーザーの比率の高さと収益化の難しさが、この数字の裏側に潜んでいました。
エコシステムを広げようとした時代
成長期のEvernoteは、ノートアプリ単体にとどまろうとはしませんでした。名刺管理に特化したEvernote Hello、食事の記録に特化したEvernote Food。専用のスキャナやノートとの提携、物販を行うEvernote Marketも展開しました。周辺アプリと周辺商品でエコシステムを構築し、生活のあらゆる場面にEvernoteを配置する。そういう構想です。
この多角化は、のちに批判の的になります。中核であるノート機能の改善が後回しになり、周辺アプリは次々と終了していったからです。ただし当時の判断としては不合理ではありませんでした。無料で使えるノートアプリという性質上、収益源をどこかに見出す必要があり、周辺領域への展開はそのひとつの回答でした。
「第二の脳」という言葉が持っていた重み
情報を捨てなくてよい。整理しなくてよい。とりあえず放り込んでおけば、必要なときに検索で見つかる。この提案は、几帳面な人にも、そうでない人にも刺さりました。几帳面な人にとっては強力な整理基盤であり、そうでない人にとっては整理しないことを許してくれる道具だったからです。
そして一度その運用に慣れると、抜け出せなくなります。10年分のノートが蓄積されたアカウントは、それ自体が資産であり、同時に鎖でもある。この連載の主題である「更新するか、否か」という問いが、単なる価格の話に収まらない理由がここにあります。読者の多くが迷っているのは、月々の金額そのものではなく、自分の外部記憶をどこに置き続けるかという問題なのだと思います。
次章では、この製品が日本市場で特異なまでの受け入れられ方をした経緯を追います。
出典
- Evernote – Wikipedia(英語版)https://en.wikipedia.org/wiki/Evernote
- Evernote Corporation – Wikipedia(英語版)https://en.wikipedia.org/wiki/Evernote_Corporation
- On Preserving Human Memory: Evernote Founder’s Impossible Mission | Taking Note(Medium)https://medium.com/taking-note/on-preserving-human-memory-evernote-founders-impossible-mission-f769b5af8594
- Inside Evernote’s brain | Fast Company https://www.fastcompany.com/90216018/inside-evernotes-brain
- Evernoteユーザー数が500万人を突破 | マイナビニュース https://news.mynavi.jp/article/20101111-a044/
- Ever-Growing Evernote Hits 10 Million Users | TechCrunch https://techcrunch.com/2011/06/06/evernote-10-million/
- Evernoteはどこに行ったのか? | btrax ブログ https://blog.btrax.com/jp/evernote/

