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黎明期——写真術の伝来とカメラ雑誌の誕生(〜1945年)| カメラ雑誌クロニクル(2)

産業分析
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カメラ雑誌クロニクル——写真・映像メディアの誕生から終焉、そして再生へ(2)

1839年、フランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが銀板写真法(ダゲレオタイプ)を公表した。写真術はわずか数年のうちに大西洋を渡り、太平洋を越え、日本にも届いた。しかし、写真術が日本に伝来してから「カメラ雑誌」が生まれるまでには、約70年もの歳月が必要だった。その間に何が起きたのか。本章では、写真術の伝来からカメラ雑誌の誕生、そして戦時下の出版統制に至るまでの黎明期を辿る。


写真術の伝来と日本の写真文化の萌芽

幕末の写真術

日本に写真術が伝わったのは、ペリー来航(1853年)前後のことである。1854年、ペリー艦隊に同行した写真師エリファレット・ブラウン・ジュニアが、日本人を撮影した記録が残る。これが日本で撮影された最も古い写真の一つとされている。

幕末から明治初期にかけて、長崎・横浜・函館といった開港地を中心に写真館が開業した。上野彦馬(1838–1904)は1862年(文久2年)に長崎で写真館「上野撮影局」を開業した日本最初期の職業写真師の一人である。ほぼ同時期に横浜で写真館を開業した下岡蓮杖(1823–1914)とともに「東の蓮杖、西の彦馬」と並び称され、日本の写真術の黎明期を支えた。

この時期の写真は、肖像写真(ポートレート)が中心であった。湿板写真の時代であり、撮影には大掛かりな装置と化学薬品が必要で、写真館で専門の写真師に撮影してもらうのが一般的であった。個人がカメラを所有して撮影を楽しむという文化は、まだ生まれていない。

アマチュア写真の勃興

個人が写真を撮る「アマチュア写真」が日本で普及し始めたのは、明治後期から大正期にかけてのことである。1888年にアメリカのジョージ・イーストマンが設立したイーストマン・コダック社がロールフィルムカメラ「Kodak No.1」を発売し、「You press the button, we do the rest(ボタンを押すだけ、あとは当社におまかせ)」というキャッチコピーで写真の大衆化を推進した。この流れは日本にも波及し、大正期には都市部の知識人や富裕層を中心にアマチュア写真愛好家が増加した。

アマチュア写真愛好家の増加は、彼らに情報を提供し、作品発表の場を与える「メディア」の需要を生み出した。ここにカメラ雑誌誕生の土壌が形成されたのである。

日本最初のカメラ雑誌——アルス『カメラ』(1921年)

アルスという出版社

1921年(大正10年)4月、日本初の本格的なカメラ雑誌が誕生した。出版社アルスが刊行した月刊誌『カメラ』(CAMERA)である。

アルスは1918年に北原鉄雄が設立した出版社で、当初は美術雑誌『ARS』を発行していた。北原は写真の将来性に着目し、1921年に『カメラ』を創刊した。アマチュア写真家を対象としたこの雑誌は、撮影技術の解説、作品掲載、カメラ・レンズの紹介を柱とする構成であった。

1931年には北原の従兄弟にあたる北原正雄が独立し、玄光社を設立している。玄光社はのちに『コマーシャルフォト』を発行する出版社として知られることになる。アルスと玄光社の関係は、日本の写真出版史において興味深い系譜である。

『カメラ』の内容と影響

『カメラ』は、写真術の技術解説を中心としつつ、読者の作品投稿欄を設けるなど、のちのカメラ雑誌の原型となる構成を備えていた。大正末期から昭和初期にかけて、ピクトリアリズム(絵画的写真主義)が日本のアマチュア写真界を席巻しており、『カメラ』もこの潮流の中で芸術写真を積極的に掲載した。

しかし、『カメラ』は戦時の出版統制により1940年(昭和15年)12月号をもって休刊を余儀なくされた。他の写真雑誌と統合され、『写真文化』、さらに『写真科学』と改編されながら命脈をつないだ。終戦後の1946年にいち早く復刊したが、出版社アルスの経営悪化もあり、最終的に1956年に廃刊となった。

『アサヒカメラ』の誕生(1926年)

全日本写真連盟とアサヒカメラ

1926年(大正15年)4月、のちに日本の写真文化を代表する雑誌となる『アサヒカメラ』が創刊された。東京朝日新聞社(のちの朝日新聞社、現・朝日新聞出版)からの刊行である。

創刊の背景には、1926年に結成された全日本写真連盟(全日写連)の存在がある。全日写連はアマチュア写真家の全国的組織であり、朝日新聞社の後援のもとに設立された。『アサヒカメラ』はこの全日写連の機関誌的な性格を持ちながら、一般読者にも広く読まれるカメラ雑誌として出発した。

創刊号は広告を含めて全114ページ、定価80銭であった。判型はB5判で、この判型はその後の日本のカメラ雑誌の標準となった。

アサヒカメラの特徴

『アサヒカメラ』は創刊当初から、以下の特徴を備えていた。

  • 写真作品の掲載: プロ・アマチュア問わず、優れた写真作品を大きく掲載する
  • 写真批評: 写真を芸術として論じる批評記事を重視する
  • 技術解説: 撮影技術やカメラ・レンズの使い方を解説する
  • 月例コンテスト: 読者参加型のフォトコンテストを毎号開催する

この「作品+批評+技術+読者参加」という四本柱の構成は、日本のカメラ雑誌の基本フォーマットとして定着し、約100年にわたって継承されることになる。

ニューフェース診断室

『アサヒカメラ』を語る上で欠かせないのが、「ニューフェース診断室」と呼ばれるカメラ・レンズのテスト連載である。正確な開始年は資料によって異なるが、1950年代から始まったとされるこの連載は、カメラやレンズの光学性能を精密に測定し、チャートとデータで示すという、世界的にも稀有な取り組みであった。

この連載は、単なる「使ってみた感想」ではなく、解像力チャートを用いた定量的なテストを行うものであり、読者にとってはカメラ・レンズ購入の決定的な判断材料となった。メーカーにとっても、ニューフェース診断室での評価は製品の評判を左右する重大な関心事であった。

戦前のカメラ雑誌群

『カメラ』(1921年)と『アサヒカメラ』(1926年)に続いて、1920年代後半から1930年代にかけて複数のカメラ・写真雑誌が創刊された。

主な戦前の写真雑誌

誌名創刊年出版社特徴
『カメラ』1921年アルス日本初の本格的カメラ雑誌。アマチュア写真家向け。
『芸術写真研究』1922年アルスピクトリアリズム写真を中心に扱う。
『アサヒカメラ』1926年東京朝日新聞社全日本写真連盟の機関誌的性格。作品掲載と写真批評を重視。
『カメラマン』1927年アルスアルスが『カメラ』に続いて創刊した写真雑誌。
『写真サロン』1930年代玄光社1931年に独立した玄光社が発行。芸術写真を中心に扱う。

戦前の日本の写真雑誌は、ピクトリアリズム(絵画主義的写真)から新興写真(ノイエ・フォトグラフィー)、そしてリアリズム写真へと潮流が変化する中で、それぞれの立場で写真表現を論じ、作品を掲載した。

海外の同時代——世界の写真雑誌黎明期

日本でカメラ雑誌が誕生した1920年代、海外ではすでに写真雑誌の歴史が数十年に及んでいた。

世界最古の写真雑誌

イギリスの『Amateur Photographer』は1884年に創刊されており、日本の『カメラ』(1921年)よりも37年も早い。さらに遡れば、1850年代にはイギリスで『The Journal of the Photographic Society』(1853年創刊、現在の Royal Photographic Society の機関誌)が刊行されている。フランスでも1851年に『La Lumière』という写真誌が創刊されている。

つまり、写真雑誌というメディア形態そのものは、写真術の発明からわずか10年余りで登場していたのであり、日本のカメラ雑誌は世界的に見れば「後発」であった。

アメリカの状況

アメリカでは、1937年に『Popular Photography』が創刊される以前にも、1912年に同名の別雑誌(ボストンで刊行、1917年廃刊)が存在していた。また、アルフレッド・スティーグリッツが編集した『Camera Notes』(1897–1903年、Camera Club of New York機関誌)、およびその後スティーグリッツが独立して創刊した『Camera Work』(1903–1917年)は、写真を芸術として位置づける先駆的な写真誌であった。

日本の「遅れ」とその理由

日本でカメラ雑誌が世界より遅れて誕生した理由は明白である。写真術そのものの日本への伝来が1850年代であり、アマチュア写真が普及するまでにさらに半世紀以上を要したからである。カメラは高価な輸入品であり、フィルムや印画紙も海外製品に依存していた時代、写真は一部の富裕層や専門家のものであった。

日本国内のカメラ産業が本格化するのは1930年代以降であり、キヤノン(1937年設立)、ニコン(日本光学工業、1917年設立、カメラ事業は戦後本格化)といったメーカーの台頭とともに、カメラの国産化が進んだ。カメラ雑誌の成長は、このカメラ産業の成長と不可分の関係にあった。

戦時下の出版統制と写真雑誌の変容

1940年代に入ると、戦時体制の強化に伴い、出版統制が写真雑誌にも及んだ。

1940年、内務省の指導のもと雑誌統廃合が実施された。アルスの『カメラ』は1940年12月号で休刊し、他の写真雑誌と統合されて『写真文化』(1941年)、さらに『写真科学』(1943年)へと改編された。『アサヒカメラ』も1942年に一時休刊している。

戦時下の写真雑誌は、報道写真や「銃後の写真」(国民の戦意高揚を目的とした写真)の掲載が増え、自由な写真表現は大きく制限された。用紙の配給制限もあり、ページ数は激減した。

しかし、この戦時期の経験は、戦後の写真雑誌の復興に際して重要な意味を持つことになる。戦前の写真雑誌で培われた編集ノウハウ、写真家ネットワーク、読者コミュニティは、終戦後わずか数年のうちに復活し、日本の写真文化の黄金期へとつながっていくのである。

次章では、終戦から1970年代にかけて、「三大カメラ雑誌」が確立され、日本の写真文化が爆発的に成長した時代を描く。


カメラ雑誌クロニクル——写真・映像メディアの誕生から終焉、そして再生へ

  1. カメラ雑誌とは何か——そして、誰が読むのか
  2. 黎明期——写真術の伝来とカメラ雑誌の誕生(〜1945年)
  3. 戦後復興と三大カメラ雑誌の時代(1945–1970年代)
  4. カメラ雑誌の黄金期——百花繚乱の1970–90年代
  5. 写真雑誌の系譜——芸術写真・フォトコンテスト・作品発表の場として
  6. 海外のカメラ雑誌——Popular Photography, Amateur Photographer, そして世界の写真メディア
  7. コマーシャルフォトと映像の時代——写真から動画への転換点
  8. デジタル化とインターネットの衝撃——カメラ雑誌はなぜ倒れたのか
  9. ウェブメディアの台頭——DPReview, PetaPixel, YouTube, そして個人ブログの時代
  10. 現行カメラ雑誌の現在地——デジタルカメラマガジン・CAPA・フォトコンは生き残れるか
  11. 終章:カメラ雑誌の未来——紙メディアは再生するのか

典拠

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